154.交戦味 基礎用語集

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悪党(あくとう)
 一般的には悪いヤツのこと。狭義には鎌倉〜南北朝時代に領主や幕府の支配に反抗し、荘園を侵したり、年貢を治めなかったり奪ったりしていた集団。

足利氏(あしかがし)
 中世に栄えた氏族。室町幕府将軍家。清和源氏。氏祖は源義家(みなもとのよしいえ)の子・義国(よしくに)。その子・義康(よしやす)が下野国足利を本拠とした。平安時代末期に源義朝(よしとも)・頼朝(よりとも)父子に従い、鎌倉時代には北条氏の姻戚として上総・三河守護となり、1333尊氏の代に北条氏に背いて建武政権成立に協力するが、1335これにも背いて室町幕府を樹立、以後十五代義昭(よしあき)まで将軍職を世襲した。⇒足利氏系図

足利尊氏(あしかがたかうじ)←足利高氏(たかうじ)
 (1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後に鎌倉幕府を離反して後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武の親政(けんむのしんせい。建武の中興)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦で新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、後醍醐天皇率いる南朝と対立、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府し、1339弟・足利直義(ただよし)とともに夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう・かんおう)の擾乱(じょうらん)で執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義と交戦した。
暴走味

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置や1192頼朝の将軍就任などによって始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権や得宗(とくそう)として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所を・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ幕府は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、末期には内管領・長崎氏が専横、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡し、幕府は解体した。 

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味
子供味

地頭(じとう)
 平安末〜鎌倉時代の荘園・公領直接支配者。平氏政権でもあったが、1185源頼朝(みなもとのよりとも)が守護とともに制度化し、田畑一段につき五升の兵粮米(ひょうろうまい)の徴収が認められた。承久(じょうきゅう)の乱前に任じられたものを本補(ほんぽ)地頭、乱後に任じられたものを新補(しんぽ)地頭という。南北朝の動乱後、本来の地頭の意味はなくなったが、江戸時代には知行取りの旗本や租税徴収係を地頭と呼んだ。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

守護代(しゅごだい)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた守護の代官。在国しない守護に代わって行政を担当した。戦国時代には越後の長尾氏、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、美濃の斎藤氏、出雲の尼子氏など、守護に取って代わって戦国大名に成長するものもあった。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。是善(これよし)の子。母は伴氏。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味 入試味 教育味

竹取物語(たけとりものがたり)
 平安時代の伝奇物語。物語の祖。一巻。9〜10C初めに完成。作者不明(源順・遍照説など)。竹取の翁に拾われて育てられたかぐや姫が五人の貴公子の求婚や帝のお召しを断って月へ帰っていく物語。
偽装味

得宗=徳宗(とくそう)
 北条(ほうじょう)氏本家の家督のこと。北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)・泰時(やすとき)・時氏(ときうじ)・経時(つねとき)・時頼(ときより)・時宗(ときむね)・貞時(さだとき)・高時(たかとき)の九代。時政と時氏を除いて七代とも。

内管領(ないかんれい・うちかんれい・うちのかんれい)
 得宗(とくそう)家の執事のこと。御内人(みうちびと。得宗直臣)の代表。鎌倉後期、執権の後見人として権勢を誇った。平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高綱(たかつな。円喜)・高資(たかすけ)父子がその代表。

長崎高資(ながさきたかすけ)
 (?-1333) 武将・幕僚。高綱(たかつな。円喜)の子。父から内管領を譲られて幕府の実権を握り、執権・北条高時(ほうじょうたかとき)の下で賄賂(わいろ)政治を展開、1326出家した高時に代えて金沢(北条)貞顕(かねざわさだあき)を執権に擁し、1331専横を憎んだ高時に殺されかけるが和解し、1333鎌倉幕府滅亡時に一族とともに東勝寺で自害した。

新田義貞(にったよしさだ)
 (?-1338) 武将。新田朝氏(ともうじ)の子。1333分倍河原(ぶばいがわら)の戦などで幕府軍を破り、鎌倉を攻略(鎌倉幕府滅亡)、1333-1335建武政権で武者所頭人(むしゃどころとうにん)に就き、1335後醍醐(ごだいご)天皇に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)討伐に向かうも竹ノ下の戦で敗退、上洛した尊氏を西海に追うが、1336湊川(みなとがわ)の戦で敗走、恒良(つねよし)親王を奉じて北陸に下るが、1337越前金ヶ崎(かねがさき。福井県敦賀市)城が陥落、1338藤島(ふじしま)の戦で斯波高経(しばたかつね)に敗死した。
進撃味 交戦味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

北条高時(ほうじょうたかとき)
 (1316-1333) 武将。鎌倉幕府第十四代執権(在職1316-1326)。第七代得宗(とくそう)。貞時(さだとき)の子。1311父の死で家督を継ぎ、1316執権に就任、舅・安達時顕(あだちときあき)、内管領・長崎高綱(ながときたかつな)・高資(たかすけ)父子に幕政を任せ、1326執権を辞めて田楽(でんがく)や闘犬(とうけん)に熱中、1331挙兵した後醍醐(ごだいご)天皇を逮捕し、隠岐へ流刑にするが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、一族とともに東勝寺(とうしょうじ)で自害した。
進撃味

明徳の乱(めいとくのらん)
 1391山名氏清(やまなうじきよ)と山名満幸(みつゆき)らが足利義満に対して起こした反乱。氏清は攻め込んだ京都で戦死し、満幸は逃れて敗死した。十一か国を領して六分一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれていた山名氏は三か国に減らされ、一時衰退した。戦争味平和味無念味

六波羅探題(ろくはらたんだい)
 鎌倉幕府の京都支所。南方・北方の二府。前身は京都守護。朝廷の監視や、尾張(のち三河)以西の御家人を統制した。1221承久(じょうきょう)の乱後に設置。初代探題は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時房(ときふさ)。最後の探題は北条時益(ときます)・仲時(なかとき)。1333足利尊氏(あしかがたかうじ)らの攻撃を受け、時益・仲時らは敗死、幕府に先んじて滅亡した。⇒京都守護

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