175.熊本味 基礎用語集

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悪党(あくとう)
 一般的には悪いヤツのこと。狭義には鎌倉〜南北朝時代に領主や幕府の支配に反抗し、荘園を侵したり、年貢を治めなかったり奪ったりしていた集団。

足利尊氏(あしかがたかうじ)←足利高氏(たかうじ)
 (1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後に鎌倉幕府を離反して後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武の親政(けんむのしんせい。建武の中興)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦で新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、後醍醐天皇率いる南朝と対立、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府し、1339弟・足利直義(ただよし)とともに夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう・かんおう)の擾乱(じょうらん)で執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義と交戦した。
暴走味

加藤清正(かとうきよまさ)
 (1562-1611) 武将。大名。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で活躍(七本槍の一人)、1588肥後熊本を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役・1597-1598慶長(けいちょう)の役で奮戦、1600関ヶ原の戦では東軍に属し、1601熊本城を新築した。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ組織は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、本家の得宗を中心として代々執権(しっけん)を選出、末期には内管領・長崎氏が専横するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡した。 

楠木正成(くすのきまさしげ)
 (1294?-1336) 武将。1333元弘(げんこう)の乱で後醍醐(ごだいご)天皇につき、河内赤坂(あかさか)城・千早(ちはや)城に籠城(ろうじょう)、鎌倉幕府軍を撃退し、建武(けんむ)の新政(中興)に参与、摂津・河内・和泉守護・河内国司に任じられ、1336謀反を起こした足利尊氏(あしかがたかうじ)を敗走させるが、再挙した尊氏に湊川(みなとがわ)の戦で敗死した。
窮地味

元弘の乱(げんこうのらん)≧元弘の変
 1331後醍醐(ごだいご)天皇による二度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件とその後に鎌倉幕府を滅ぼした戦い。1324正中(しょうちゅう)の変にも懲りずに後醍醐天皇は再び倒幕の計画を練るが、近臣・吉田定房(よしださだふさ)が幕府に密告、日野俊基(ひのとしもと)・文観(もんかん)らは逮捕され、危険を感じた後醍醐天皇は京都を脱出、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが、敗れて捕らえられ、隠岐へ島流しにされた。しかしこの後、楠木正成(くすのきまさしげ)ら悪党の活躍や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)ら有力御家人の裏切りによって鎌倉幕府は崩壊した。
窮地味 子供味 隠岐味

弘安の役(こうあんのえき)
 1281元のフビライが日本に対して起こした二度目の侵攻。元・高麗軍からなる東路軍四万人九百艘と、南宋の投降兵を主力とした江南軍十万人三千五百艘が対馬・壱岐・長門を攻撃し、筑前博多に来襲するが、日本は事前に石塁を築いて防戦、上陸を阻止された元軍は肥前鷹島に退いたところ、再度暴風雨にあって壊滅した。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味
子供味 隠岐味

自衛隊(じえいたい)
 (1954-) MSA協定(日米相互防衛援助協定)により、保安隊と警備隊を改組して発足した日本の防衛組織。防衛省に所属する陸上・海上・航空自衛隊の三隊。内閣総理大臣の統率のもと防衛相(2007まで防衛庁長官)が隊を総括。
内乱味

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。もとは院政における院司の長官のこと。初代執権は北条時政(ほうじょうときまさ)。最後の執権は北条守時(ほうじょうもりとき。赤橋守時)。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

正中(しょうちゅう)の変
 後醍醐(ごだいご)天皇による一度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件。1324後醍醐天皇は権中納言・日野資朝(ひのすけとも)、蔵人・日野俊基(としもと)、美濃の武士・多治見国長(たじみくになが)や土岐頼兼(ときよりかね。頼時)らと無礼講と称して幕府転覆の密談を重ねるが、一族の船木頼春(ふなきよりはる。頼治。土岐頼員)が六波羅探題(ろくはらたんだい)に密告、京都の宿所を急襲されて国長・頼兼らは敗死し、資朝は佐渡に流刑、後醍醐天皇も疑われたが、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に言い訳させて乗り切った。
秘密味

鎮西探題(ちんぜいたんだい)
 鎌倉幕府の九州支所。元寇後の1293に筑前博多に置かれ、西国防備や九州統治強化を担当。北條氏一族が任命された。1333最後の探題・赤橋英時(あかはしひでとき)は菊池武時(きくちたけとき)の反乱を鎮圧するが、少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)らに裏切られて滅亡した。

博多(はかた)
 現在の福岡県福岡市博多区。古代には大宰府の外港として栄え、鎌倉時代に鎮西探題が、室町時代に九州探題が置かれて九州の中心となり、豪商が力をつけて一時自治都市となり、近世には商業都市として発展した。

文永の役(ぶんえいのえき)
 1274元のフビライが日本に対して起こした最初の侵攻。元・高麗連合軍二万八千人九百艘が対馬・壱岐を攻略して筑前博多に上陸、集団戦やてつはうなど火器で暴れたが、暴風雨などによって撤退した。

六波羅探題(ろくはらたんだい)
 鎌倉幕府の京都支所。南方・北方の二府。前身は京都守護。朝廷の監視や、尾張(のち三河)以西の御家人を統制した。1221承久(じょうきょう)の乱後に設置。初代探題は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時房(ときふさ)。最後の探題は北条時益(ときます)・仲時(なかとき)。1333足利尊氏(あしかがたかうじ)らの攻撃を受け、時益・仲時らは敗死、幕府に先んじて滅亡した。⇒京都守護

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