1.貧乏物語

ホーム>バックナンバー2022>令和四年6月号(通算248号)成金味 山本唯三郎1.貧乏物語

うらやましくない成金
1.貧乏物語
2.大戦景気
3.酒池肉林
4.盛者必衰

 長州戦争は二度あった。
 元治元年(1864)の第一次長州戦争江戸幕府が鎮圧したが、慶応二年(1866)の第二次長州戦争では長州藩
(山口県萩市)が勝利した。

 第二次長州戦争の前、幕府に味方していた石見浜田藩(はまだはん。島根県浜田市)は戦々恐々としていた。
「隣の長州藩は、こちらにも押し出してくるでしょうか?」
 浜田藩士・坂斎正雪
(坂斉正雪)は不安であった。
「押すなよ! 絶対押すなよ!」
 浜田藩主・松平武聡
(越智武聡)は警戒を強めた。
「お〜ま〜え〜は〜ア〜ホ〜か〜」
 長州藩主・毛利敬親
(もうりたかちか)は浜田藩の防備を一蹴した。
 ただちに兵を送って浜田城を炎上陥落させてしまった。
「殺す気か!」
 武聡は正雪らを連れて飛び地のあった美作鶴田
(たずた。岡山市北区)に避難した。
 新たにそこに「鶴田藩」を立てて抵抗したが、そこもまもなく長州藩に占領された。
 その地
(廃藩置県後は鶴田県)で避難民として暮らしていた明治六年(1873)十一月八日に、正雪の三男として生まれたのが唯三郎であった。
 明治七年(1874)、坂斎一家は岡山県上道郡小橋町
(岡山市中区)に引っ越し、タバコ屋を始めた。

 唯三郎には兄が二人いた。
 長兄・坂斎常次郎は正雪の後嗣として家を継いだ。
 次兄・要吉は青木多三郎
(あおきたさぶろう)の養子になった。
 そして唯三郎は、母・勢以の実家、山本家を継いだ。
 明治八年(1875)に山本竹次郎の養子になり、その翌年には数え四歳にして家督を相続したのである。
「家督を相続するってことは、どういうことか分かるね?」
「うーん、わかんない〜」
「働くってことだよ」
「はたらく〜?」
 四歳に何の仕事ができるというのか?

 明治十二年(1879)五月、唯三郎は環翠尋常小学校(後の旭東小)に入学した。
 成績は良かったが、貧乏のため学費を払えなかった。
「かあちゃん、ガクヒは〜?」
「ないよ」
「はらわないと、ガッコーをおいだされちゃうよ〜」
「おまえは山本家の当主でしょ? 家長が稼がずに誰がお金を用意するのよ?」
「ボクがはたらいてたら、ガッコーにいけないじゃないか〜」
「おまえが学校に行ってたら、誰が家族を養うのよ?」
「かあちゃんだよ。オヤがコをやしなうのは、あたりまえだよ」
「おまえ、何を勘違いしているんだい? おまえは山本家の家長なのよ。家長が家族を養うのは当たり前でしょ?」
「……」

 唯三郎は小学校を休学して近所の豆腐屋で働いた。
 店の掃除や使い走りもさせられたが、毎日させられたのは豆腐の行商であった。
「とーふー、とふとふー、とーふはいらんかね〜♪」
 子供が甲高い声で重そうに天秤棒
(てんびんぼう)を担いで売っていると、
「小さいのに、えらいねー」
「かわいそうに。買ってあげるよ」
「私も私も〜」
 かわいいのと同情で近所の奥様方が集まってきて買ってくれた。
 豆腐屋の主人は喜んで褒めてくれた。
「すごいなおまえ、稼ぎ頭だぞ」
「えへへー」
 唯三郎は学校にいかなくなってからも独学で勉強していた。
 朝早くからから夕方まで豆腐を売り歩いていたため、勉強できるのは寝る前のわずかな時間しかなかった。
「ああ、もっとベンキョーしたいなー。ガッコーはたのしかったなー」

 十歳にもなると、こう考えるようになった。
「もっと割の良い仕事をすれば、学校に行ける銭と時間ができるじゃないか」
 そのためには都会で働くことだと考えた唯三郎は、明治十五年(1882)の秋に一人で大阪に行くことにした。
 当然、大阪行きの船賃など払えないため、一週間かけて歩いていった。
「僕を雇ってください! 何でもいいから仕事をください!」
 あちこち駆け回ったところ、福音社で見習い印刷工として雇ってもらえることになった。
 で、雇い主の許可を得て、中之島
(なかのしま。大阪市北区)の泰西学館夜間部に入学した。
 同学校は同志社系で、主に勉強したのは英語である。
「これからは英語が必要になる。欧米相手に商売すれば、もっと稼げるようになるはずだ」
 唯三郎少年には先見の明があった。
 唯三郎は印刷工として一人前になると、より大きな太平新聞社に転職し、日給十五銭を稼げるようになった。

 そんな折、東華学校(同志社仙台分校)の教師になっていた次兄・青木要吉からお呼びがあった。
「唯三郎は夜学に通っているのか。勉強は昼間した方がいい。学費を援助してやるから仕事を辞めて学業に専念しなさい」
 明治二十二年(1889)、十七歳の唯三郎は岡山に帰郷し、閑谷黌
に入学した。
 同校では主に漢学を学んだが、一年余後に兄が卒業した同志社に進学した。
 が、東華学校廃校のため要吉は失職し、援助できなくなったため、明治二十四年、唯三郎は退学に追い込まれた。
「すまんな。私が無職になったばかりに」
「おかげで僕も無職だ」
「それでも私は全然衝撃を受けていない。無職とは、無〜ショックだ」
「そうだよ! 無職には選択の自由がある! のし上がるかもしれない無限の可能性がある! いつか見返してやるからな!」
 唯三郎は友人に家庭教師の仕事を紹介してもらって生活の糧にした。
 要吉は先に行動に出た。
「でっかいことをするためには、まずは世界を見ることだ。私は渡米する!」
 明治二十五年、要吉はエール・コロンビア大学
(イェール大学)に入学するため横浜から渡米した。
 後に彼は教育家として名を馳せ、実業界にも転じることになる。

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