132.領土味 基礎用語集

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足利成氏(あしかがしげうじ)←永寿王丸(えいじゅおうまる)
 (1438?-1497) 武将。五代鎌倉公方(在職1447or1449-1455)。初代古河公方(在職1455-1497)。持氏(もちうじ)の子。1438永享(えいきょう)の乱が起こると信濃へ逃れ、結城氏朝(ゆうきうじとも)に奉じられた兄の足利安王丸・春王丸とともに1440-1441結城合戦に参戦、捕らえられるが嘉吉の乱による六代将軍・足利義教(よしのり)の死で許され、1447or1449鎌倉公方に就任、1454関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を殺害して1455鎌倉を追われ、下総古河(しもうさこが)に移って幕府・上杉軍と交戦(古河公方の始まり)、1457八代将軍・足利義政(よしまさ)が派遣した堀越公方・足利政知(まさとも)とも戦った。

足利政知(あしかがまさとも)
(1435-1491) 武将。初代堀越公方。足利義政の弟で、出家して天竜寺香厳院主になるが、享徳の乱を起こした鎌倉公方(のち古河公方)・足利成氏(しげうじ)に対抗させるため幕府と上杉氏が1457擁立、伊豆堀越を居所とし、鎌倉入りを図るが、思いのほか支持がなく、生涯堀越で暮らした。

足利義政(あしかがよしまさ)←足利義成(よししげ)
 (1435or1436-1490) 室町幕府八代将軍(在職1449-1473)。義教(よしのり)の子。義勝(よしかつ)の弟。母は日野重子(ひのしげこ)。管領・畠山持国(はたけやまもちくに)、側室・今参局(いままいりのつぼね)、政所執事・伊勢貞親(いせさだちか)、正室・日野富子(ひのとみこ)・義兄・日野勝光(かつみつ)らに実権を握られ、趣味風流生活に逃避、弟・義視(よしみ)を後継とするが、富子(ひのとみこ)が実子・義尚(よしひさ)を立てて譲らず、1467-1477応仁の乱(応仁・文明の乱)に発展、東山に隠居し、銀閣を建立、侘び茶の村田珠光(むらたじゅこう)、花道(華道)の池坊専慶(いけのぼうせんけい)、画家の土佐光信(とさみつのぶ)・狩野正信(かのうまさのぶ)、作庭師の善阿弥(ぜんあみ)、芸術家の能阿弥(のうあみ)らを庇護するなど、東山文化の担い手となった。

足利義視(あしかがよしみ)
(1439-1491) 武将。足利義政の弟で、子のない義政の養子になり、次期将軍を約束されるが、実子・義尚(よしひさ)が生まれてしまったため応仁の乱に巻き込まれ、当初東軍に、後に西軍につくが、義尚死後に義政と和睦、子・義稙(よしたね)を将軍として実権を握った。

応仁(おうにん)の乱=応仁・文明(ぶんめい)の乱
 (1467-1478) 管領細川勝元(ほそかわかつもと)と嘉吉の乱以後台頭した山名持豊(やまなもちとよ。宗全)の対立に将軍家(足利義視vs足利義尚)・畠山氏(畠山政長vs畠山義就)・斯波氏(斯波義敏vs斯波義廉)の家督争いが絡んで起こった戦。京都を中心に十一年間繰り広げられたが、1477勝元・持豊が相次いで病没し、翌年、両軍は講和した。領土味

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

管領(かんれい)←執事(しつじ)
 
室町幕府の将軍補佐役。足利家執事&室町幕府政務長官。現代の副総理または官房長官のようなもの。足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事・高師直(こうのもろなお)が起源。後には三管領家(細川・斯波・畠山氏)から交替で選ばれた。

享徳の乱(きょうとくのらん)
 (1454-1476or1482) 鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)が起こした反乱。1454成氏が関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を暗殺したため、幕府は征討軍を派遣、今川範忠(いまがわのりただ)らが鎌倉に進攻したが、成氏は下総古河に移って徹底抗戦(古河公方)した。幕府は足利政知(まさとも)を公方として伊豆堀越に入れて対抗(堀越公方)、関東の武士団は両派に分かれて長期戦となった。1476長尾景春(ながおかげはる)の乱を機に1477成氏と上杉顕定(あきさだ)が講和、1482成氏は幕府とも講和した。領土味

下克上=下剋上(げこくじょう)
 下の者が上の者をしのぐこと。鎌倉時代に現れ、南北朝〜戦国時代にかけて盛んになった風潮。これにより各地に戦国大名が゛出現し、一揆が蜂起した。

古河公方(こがくぼう)
 (1458-1498) 室町時代に下総の古河を居所とした関東公方。鎌倉公方・足利成氏は1454関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を殺して上杉氏らと対立、1455幕府軍の今川範忠(いまがわのりただ)に鎌倉を追われ、下総古河を居所とした。その後、政氏・高基・晴氏と続いたが、1554北条氏康(ほうじょううじやす)に古河城を落とされて事実上滅亡した。形式的にはなお義氏・氏姫と続いた。

古今伝授(こきんでんじゅ)
 『古今和歌集』の解釈の秘伝を弟子に伝授すること。美濃郡上(みのぐじょう)領主・東常縁(とうつねより・とうのつねより)が正風連歌(しょうふうれんが)の祖・宗祗(そうぎ)に伝えたのが特に有名。三箇大事・三鳥大事・三才大事などの秘事がある。

周恩来(しゅうおんらい)
(1898-1976) 中国の政治家。1917来日して早大などで学んだ後、帰国して五・四運動に参加、1920渡仏してマルクス主義に傾倒し、1922中国共産党に入党、1924帰国して1927北伐で武装蜂起し、日中戦争中は国共合作に尽力、1949中華人民共和国成立で初代首相になり、1972田中角栄と日中共同声明を発表し、日中国交回復を実現した。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

守護代(しゅごだい)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた守護の代官。在国しない守護に代わって行政を担当した。戦国時代には越後の長尾氏、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、美濃の斎藤氏、出雲の尼子氏など、守護に取って代わって戦国大名に成長するものもあった。

守護大名(しゅごだいみょう)
 室町時代に守護が封建領主化したもの。鎌倉時代の守護は大犯三か条による軍事警察権しかなかったが、室町時代になると刈田狼藉(かりたろうぜき)の制止や使節遵行しせつじゅんぎょう)の権限が加えられ、半済令や守護請で土地支配を確立し、段銭(たんせん)徴収権も得て一国全体を支配するようになった。応仁の乱以降は戦国大名化する者もあったが、守護代や国人らに実権を奪われて没落いる者も多々あった。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

相国寺(しょうこくじ)=万年山相国承天寺
 京都市上京区所在。臨済宗相国寺派大本山。万年山。京都五山第二位。1382夢窓疎石(むそうそせき)を開山(実際は春屋妙葩開山)として足利義満(あしかがよしみつ)が創建。塔頭(たっちゅう。支院)の鹿苑院(ろくおんいん)住持が僧録を兼任し、禅宗寺院を統括した。歴代住持の日記『鹿苑日録』は有名。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

田中角栄(たなかかくえい)
(1918-1993) 実業家・政治家。1943田中土建工業を設立し、1947衆院議員となり、岸内閣で郵政相に就任、政府や党の要職を歴任し、1972首相に就任、周恩来と日中共同声明を発表して日中国交回復を成し、日本列島改造論を唱えたが、1976ロッキード事件で逮捕、大平・鈴木・中曽根内閣でも影響力を及ぼすが、1985脳梗塞で倒れて政治生命を失った。

中国(ちゅうごく)≧中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)←中華民国(ちゅうかみんこく)
 (1912-) 東アジアにある国。1912孫文(そんぶん)が臨時大統領になって中華民国が成立、袁世凱(えんせいがい)が専制支配を確立し、1928蒋介石(しょうかいせき)が国内を統一するが、1937-1945日中戦争で衰退、1949中華人民共和国が成立した。現在の首都は北京。
中国味

天竜寺(てんりゅうじ)
 京都市右京区所在。臨済宗天竜寺派大本山。霊亀山。京都五山第一位。1339夢窓疎石(むそうそせき)を開山として足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟が後醍醐天皇の冥福を祈るために創建。大方丈前の庭園は夢窓疎石の作庭として有名。

日中共同声明(にっちゅうきょうどうせいめい)
 1972日本と中国が国交正常化した声明。1972ニクソン米大統領が訪中して米中が接近したことにより、田中角栄首相も訪中、周恩来首相と戦争状態の終結と日中国交正常化を宣言した。日本は中国を唯一の合法政府と見つめたため台湾と断交したが、台湾とは1973日台交流民間協定を結び、経済関係などは維持した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

畠山義就(はたけやまよしなり)
 (?-1490) 武将。持国の子。従弟の畠山政長(まさなが)と家督を争い、山名宗全(やまなそうぜん)を頼って応仁の乱に参戦、西軍の主力として活躍した。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

細川勝元(ほそかわかつもと)
 (1430-1473) 武将。管領(在職1445-1449,1452-1464,1468-1473)。持之(もちゆき)の子。1442父の死で家督を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐守護に就任、三度管領となって将軍・足利義政を補佐し、将軍や他家の継嗣問題を巡って義父・山名持豊(宗全)と対立、1467-1477応仁の乱で義政を奉じ、東軍の総大将として戦うが、1473病没した。

堀越公方(ほりごえくぼう・ほりこしくぼう)
 (1458-1498) 室町時代に伊豆の堀越を居所とした関東公方。享徳の乱を起こした鎌倉公方(のち古河公方)・足利成氏(あしかがしげうじ)に対抗させるため、室町幕府と上杉氏が1458足利政知(まさとも。義政の弟)を擁立するが、鎌倉に入ることなく1491死去し、跡を継いだ足利茶々丸は1498北条早雲に殺されて滅亡した。

山名持豊(やまなもちとよ)→山名宗全(そうぜん)
 (1404-1473) 武将。但馬等守護。侍所所司(頭人。在職1440-1441)。時煕(ときひろ)の子。1431兄・持煕(もちひろ)の失脚によって家督を継ぎ、1440侍所所司(さむらいどころしょし)に就任、1441嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)を討ち、播磨を加えて五か国を領有(一族で九か国)、1444赤松満政(みつまさ)を討ち、赤松氏再興や斯波(しば)・畠山(はたけやま)l)両氏の家督相続問題や将軍継嗣問題で管領・細川勝元(ほそかわかつもと)と対立、1467-1477応仁の乱に発展して西軍の主将となり、陣中で没した。
富豪味

連歌(れんが)
 上の句と下の句を交互に詠み合う文芸。室町時代が最盛期。代表的な連歌集は、二条良基(にじょうよしもと)の『菟玖波集(つくばしゅう)』・宗祗(そうぎ)の『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』、山崎宗鑑(やまざきそうかん)の『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』。

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