1.テロ味 基礎用語集

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

大友皇子(おおとものおうじ・おおとものみこ)
 (648-672)弘文(こうぶん)天皇。伊賀(いが)皇子とも。第三十九代天皇(在位671-672)。天智天皇の第一皇子。671太政大臣。672壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗死。

大伴家持(おおとものやかもち)
 (718?-785)公卿。中納言。大伴旅人(たびと)の子。『万葉集』の編集者とされる。藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わった罪で死後処罰された。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

光明皇后(こうみょうこうごう)・藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)
 (701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。藤原不比等(ふひと)の三女。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、749聖武天皇没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

聖徳太子(しょうとくたいし)・厩戸(うまやど)皇子
 (574-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を派遣、斑鳩(いかるが)に法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編集した。日朝味

聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
暴発味 

摂関政治(せっかんせいじ)
 10〜11世紀に藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白職を独占して主導権を握った時代。安和の変後に摂関は常置となるが、院政が始まると衰退した。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば、神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤和良房(ふじわらのよしふさ)である。

大化の改新(たいかのかいしん)
 中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが行った政治改革。645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子を皇太子、中臣鎌足を内臣、阿倍内麻呂(倉橋麻呂)を左大臣、蘇我(倉山田)石川麻呂を右大臣、旻・高向玄理を国博士とし、646改新の詔を発表、公地公民制を確立させ、地方制度を整備、班田収授法を定め、新税制を導入した。

太政官(だいじょうかん・だじょうかん)
 
律令制において神祗官(じんぎかん)と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下すべての官庁を統括。事務局としてし少納言局・弁官局が付属。

大納言(だいなごん)
 太政官(だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。705その下に中納言が置かれた。

大宝律令(たいほうりつりよう)
 日本初の法典。701文武朝に刑部親王・藤原不比等らにより完成。律6巻・令11巻。現存せず。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

橘 諸兄(たちばなのもろえ)
 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。光明皇后の異父兄。聖武天皇の大仏造立に協力し、恭仁京遷都を主導したと思われる。

伊達政宗(だてまさむね)
 
(1567-1636) 武将・大名。初代陸奥仙台藩主。出羽米沢城主・伊達輝宗の長男。1584家督相続し、1585常陸の佐竹義重(さたけよししげ)らを撃破(人取橋の戦い)、1586畠山氏を滅ぼし、1589会津の葦名盛氏(あしなもりうじ)を攻略(摺上原の戦い)、ほぼ陸奥を平定するが、1590豊臣秀吉に、1600徳川家康に服属、1600関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を攻め、1603仙台に引越、1613家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らを欧州に派遣し(慶長遣欧使節)、1614-1615大坂の役にも参戦した。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)第三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮に遷都し、668近江令を編集、670庚午年籍を作成した。日朝味

天武天皇(てんむてんのう)・大海人皇子(おおあまのおうじ)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色の姓を制定し、飛鳥浄御原令を編集させた。

長屋王(ながやおう)
 (676?-729)皇族・公卿。左大臣。高市皇子の子。藤原不比等死後、政界首班として722良田百万町歩の開墾を計画、723三世一身法を施行したが、729藤原四兄弟によって自殺に追い込まれた。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

藤原氏(ふじわらし)
 特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・中臣(なかとみ)鎌足
 (614-669)公卿。内臣(うちつおみ・ないしん)。藤原氏の祖。中臣御食子(みけこ)の子。中大兄皇子(天智天皇)とともに645蘇我氏を滅ぼして大化の改新に協力、近江令編集に関わり、死の直前に藤原姓と大織冠(たいしょくかん)を受けた。

藤原不比等(ふじわらのふひと)
 (659-720)公卿。右大臣。中臣(藤原)鎌足(なかとみ・ふじわらのかまたり)の子。武智麻呂(むちまろ。南家)・房前(ふささき。北家)・宇合(うまかい。式家)・麻呂(まろ。京家)・光明子(こうみょうし)らの父。仲麻呂(なかまろ)・広嗣(ひろつぐ)・百川(ももかわ)らの祖父。701刑部(おさかべ)親王とともに大宝律令(たいほうりつりょう)を完成させ、718養老(ようろう)律令も編集、710平城京(へいじょうきょう)遷都や721『日本書紀(にほんしょき)』編集にも関与した。
偽装味

藤原道長(ふじわらのみちなが)
 (966-1027)公卿。摂政・太政大臣。藤原兼家(かねいえ)の子。995兄の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)の死によって内覧となり、996長徳の変で政敵の藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟を追放、左大臣に昇り、四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)を四人の天皇(一条・三条・後一条・後朱雀)に嫁がせ、天皇の外戚として権力を掌握、1016摂政に、1017太政大臣に就任して摂関政治の最盛期を現出、1020法成寺(ほうじょうじ)を建て、日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』を残した。
満月味 テロ味2
安倍味5

藤原頼通(ふじわらのよりみち)
 (992-1074)公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原道長の子。摂政・関白在職中は摂関政治の最盛期で、1053宇治に平等院鳳凰堂を建立した。

平安京(へいあんきょう)
 平安〜江戸時代の首都。京域は京都盆地北部。東西約4.5q。南北約5.2q。794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

平城京(へいじょうきょう)
 奈良時代の首都。京域は奈良盆地北部。東西約4.3q。南北約4.8q。710元明(げんめい)天皇が遷都し、784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都まで存続。

養老律令(ようろうりつりょう)
 法典。718元明朝に藤原不比等(ふじわらのふひと)により完成。律10巻・令10巻。757藤原仲麻呂(なかまろ)が施行。

 

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