有間皇子の変2.勧 誘 | ||||||||||||||
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僕の家は大倭の市経(いちぶ。奈良県生駒市or高取町or橿原市)にある。
斉明天皇四年(658)十一月三日、ひっそりと暮らしていた僕のところに来客があった。
蘇我赤兄(そがのあかえ)という男であった。
「ああ。今は女帝も皇太子もいなくて、なんの気遣いもいらない。せいせいしますよ」
赤兄は笑った。憎めない笑顔である。子供がなつきそうな笑顔であった。
斉明天皇や中大兄皇子や鎌足らは、先月半ばから紀伊の牟婁温湯(むろのゆ。湯崎温泉。和歌山県白浜町)に出かけていた。
「景色もよくていいところでしたよ」
先に行った僕が人に話しているのを、斉明天皇が聞きつけたのだ。
「そんなにいいところなら、私も行ってみようかねえ」
この年、斉明天皇はかわいがっていた孫・建王(たけるのおう)を亡くした。中大兄皇子と蘇我遠智娘(おちのいらつめ)の皇子で、生まれつき口をきくことが不自由だったという。
「この際、みんなで紀伊まで旅行に行きますか?」
中大兄皇子が勧めた。斉明天皇に異論はなかった。いわゆる慰安旅行だが、中大兄皇子には別のもくろみがあった。彼は主だった皇族・豪族たちをほとんど連れて行くことにしたのである。信頼厚い蘇我赤兄を都の留守官に任じて。ただ、そのときの僕には、そのことが何を意味しているかまでは分からなかった。
僕は不審に思った。
(どうして中大兄皇子の側近ともいえる赤兄が僕なんかを訪ねてくるんだろう?)
舎人(部下)の新田部米麻呂(にいたべのよねまろ)も同じ思いのようだった。
(何かウラがあるぞ)
僕は感づいた。警戒した。
赤兄は、距離をおいた僕の様子に気づいたようであった。
「どうしたんですか? 私のことが嫌いなんですか? 迷惑だったら帰りますが」
「いえ。そんなことは――」
「無理もありません。私は表向きは皇太子の側近のようなものですから」
赤兄は「表向きは」の箇所を強調した。そして、小声になって続けた。
「皇子は私のことをよく御存知ではありませんね。無理もありません。みんな皇子がまだ小さい頃に起こったできごとですから。――いいですか。私は皇太子に伯父(蘇我蝦夷)と従兄弟(蘇我入鹿)と長兄(蘇我石川麻呂)と姪(蘇我造媛)を殺され、次兄(蘇我日向)を島流しにされているんですよ。そのようなひどい仕打ちをした皇太子に対して、心の底から好意を抱いているとでも思っているんですか?」
確かに赤兄の長兄・石川麻呂(いしかわまろ。蘇我倉山田石川麻呂)は、中大兄皇子と鎌足の入鹿暗殺に協力して右大臣になったが、大化五年(649)、謀反の疑いをかけられて殺されていた。その際、石川麻呂の娘・造媛(つくりひめ)は傷心の余り亡くなり、日向(ひむか)は九州に左遷されている。
「皇太子と鎌足は、我が蘇我一族のカタキですよ! 二人があんなことをしなければ、我が蘇我一族は永遠の栄華を極めていたのだっ!」
赤兄がしぼり出すように言った。うめくような声に、彼の悔しさが満ち満ちていた。
「この気持ち、皇子にもお分かりでしょう? 父を皇太子に殺され、母を鎌足に奪われた皇子にもっ」
僕の胸の中に押さえつけていた恨みが突然ブワッ燃え上がった。その炎の一部が目からもれ出てしまったようだ。
赤兄は感づいた。そして、うれしそうに笑った。
僕は疑った。
一方でその笑みに期待も抱いた。
どうして笑う? 同士を発見した単純な喜びからなのか? それとも、僕を陥れることが成功に近づいたからなのか? だめだ! 分からない! おまえは敵なのか、味方なのか、どっちだ?
赤兄は続けた。
「皇太子が皇太子なら、女帝も女帝ですよ。女帝には三つの失政があります。一つ目、国民に重税を課し、それを大きな蔵に貯め込んでいること。二つ目、大きな溝を造らせるなど、国民に過酷な労働をさせていること。三つ目、岡の上に意味のない巨大な建造物を造らせていること、です」
斉明天皇の土木工事好きはよく知られている(1999年に明日香村で発見された飛鳥宮廷庭園遺跡はその遺構の一部である)。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)・小墾田宮(おはりだのみや)・川原宮(かわらのみや)・岡本宮(おかもとのみや。以上明日香村)・吉野宮(よしののみや。奈良県吉野町)・筑紫朝倉宮(つくしあさくらのみや。朝倉橘広庭宮。福岡県朝倉市)といった皇居や離宮をあちこちに造営し、池や運河を掘り、わけのわからない石のモニュメントなどを作らせて楽しんでいた。
どうやら欲しいものは何でも造らせるというのが彼女の主義のようだった。そしてそのために苦しくなる国民の生活など、顧みることはなかったのである。
赤兄の言葉に力がこもってきた。
「女帝は国民は自分のために当然に働くものだと勘違いしている。存分に働かせなければ損だと思い込んでいる。女帝は忘れているんですよ。国民が人間だということを。熱い血の通った尊い命ある人間だということを。これでは人間の女帝ではありませんよ。アリの女王ですよっ。いや、アリですら気遣いますよ!
情けぐらい掛けますよ! 今の女帝のしていることは、アリ以下です! 女帝には、目を覚まさせてやらなければなりません。そうしなければ、女帝のためにも、この国のためにもなりません」
僕もそのとおりだと思った。赤兄の言うことに間違いはなく、何の異論もわいてこなかった。
しかし、疑問は生じた。
「でも、どうやって女帝の目を覚まさせるんだ?」
赤兄が当然のように答えた。
「皇太子と鎌足をぶっ殺すことです。そうすれば、女帝の目は覚めます」
「ぶっ、物騒な!」
「物騒なって、皇太子は以前、入鹿を殺したんですよ! 女帝がおかしくなったのは、入鹿が目の前で殺されてからです。女帝の狂気を治すには、息子の死が必要なんです! 『目には目を、埴輪には埴輪を』って言うじゃないですか!」
「いや、どこか違う」
「とにかく、戦いましょう。皇太子の悪に虐げられている正義の国民のために!
女帝の狂気を目覚めさせるために! それができるのは、先帝の皇子であるあなただけなんですよ!
そして時期は、皇太子も女帝も都にいない、今だけなんですよ! 期間限定、今こそ千載一遇の好機なんですよっ!」
僕はちょっと退いた。この男、熱すぎる。
「何を迷っておられるんです? 私が信じられないんですか? あなたと同じように皇太子に恨みを持っている、この私が信じられないんですか? 私の目を見てください! このつぶらな、純真無垢(むく)な、一点のかげりも偽りもない正直なひとみを御覧ください! このひとみを見ても、あなたは信じられないんですかっ?」
というよりこの男、目が細すぎてひとみが見えない。
「それとも皇子はこのまま悪を野放しにしておくような、無責任なお人なんですか?
もしそうであれば、私の言うことはムダです。正しき言葉は悪人には通じません。それともあなたは悪人なんですか?
皇太子と同じで、人の命や痛みを何とも思っていない極悪人なんですか? だから私に同調しないんだー!」
僕は怒った。
「中大兄皇子と同じにするな! 僕は誰よりも悪を憎んでいる!」
赤兄は喜んだ。感涙して僕の手を取った。
「その言葉は、悪は退治されなければならないという意味に受け取っていいんですねっ?」
僕はうなずいた。
「そのとおりだ。悪は退治されなければならない」
赤兄は満足して立ち上がった。
「分かりました。今日はこれで失礼しますが、善は急げです。二日後、迎えにきますので、私の家で策を練りましょう。それではまた――」
赤兄は僕の気が変わるのを恐れたのか、足早に去っていった。
赤兄が帰った後、新田部米麻呂が心配そうに尋ねた。
「あんな約束をして大丈夫なんでしょうか? 善や悪というより、皇子の行おうとしていることは謀反なんですよっ。女帝や皇太子は留守とはいえ、成功するとは思えません。そもそもあの男は本当に信じられる男でしょうか?」
僕は言った。
「大丈夫だよ。赤兄が中大兄皇子に恨みを持っていることは確かのようだ。それにもし、赤兄が信じられないような男なら、やめればすむことだよ。やるかやらないかは、あさっての作戦会議次第で決めればいい」