1.群衆の中で | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2022>令和四年12月号(通算254号)油断味 赤穴瀬戸山城の戦1.群衆の中で
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「大内義隆につくか? 尼子経久(あまこ・あまごつねひさ)につくか?」
天文年間(1532-1555)、中国地方の戦国武将たちは揺れていた。
「強い方につかなければ生き残れないが、現時点ではどちらが強いのかわからない」
それでも、出雲赤穴瀬戸山城主・赤穴光清の腹は決まっていた。
「大内義隆は周防などの守護。尼子経久さまは出雲の守護代。家格は義隆が上だが、人物なのは経久さま」
「そのとおりじゃ。勢いがあるのは尼子じゃ」
赤穴氏は隠居した父の赤穴久清の代から経久に従っていた。
しかし、天文十年(1541)十一月十三日、尼子経久は月山富田城で病没してしまった。享年八十四。
後を継いでいたのは、経久の孫・尼子晴久(はるひさ)であった。
この前年、晴久は経久の反対を押し切って大内傘下の毛利元就の居城・安芸郡山城(こおりやまじょう。吉田郡山城。広島県安芸高田市)に攻め寄せていたが、ものの見事に惨敗していた。
「なあんだ。尼子は大内より弱いじゃないか」
「経久さまは傑物だったが、晴久さまは愚物」
「大内のお屋形さま(大内義隆)がなぐり込みのお礼に来るそうな。このまま晴久についているとまずいぞ」
国境の国人衆は次々に大内方に寝返り始めた。
それでも光清は尼子についていた。
「赤穴瀬戸山城は尼子十旗の一角である。経久さまに任されたこの城を、そう簡単に明け渡すわけにはいかぬ」
尼子十旗 |
白鹿城(松田氏) 三沢城(三沢氏) 三刀屋城(三刀屋氏) 赤穴氏(赤穴氏) 牛尾城(牛尾氏) 高瀬城(米原氏) 神西城(神西氏) 熊野城(熊野氏) 真木城(真木氏) 大西城(大西氏) |
「寝返らぬヤツは踏みつぶすまでよ」
天文十一年(1542)一月十三日、大内義隆は尼子晴久に仕返しするため、陶隆房・杉重矩(すぎしげのり。重信)・内藤興盛(ないとうおきもり)ら一万五千人を率いて周防山口(やまぐち。山口県山口市)を発した。
大内軍は安芸国府で安芸の毛利元就・平賀隆宗・吉川興経・小早川正平(こばやかわまさひら。「隆景味」参照)・天野興定(あまのおきさだ)・熊谷信直らや、備後の山名理興(やまなまさおき。杉原理興)・多賀山通続(たがやまみちつぐ)らと合流し、三月には石見二ツ山城(ふたつやまじょう。島根県邑南町)に入り、本城常光(ほんじょうつねみつ。本庄常光)・益田藤兼(ますだふじかね)ら石見の諸将も糾合し、総勢四万人に膨れ上がった。
「みなの衆、よくぞ集まってくれた! まずは小手始めに赤穴城を粉砕せよ!」
「おおー!」
「おおー!」
「おおー!」
対する赤穴城兵はわずか三千人である。晴久は援軍として田中三郎左衛門を送ったが、それを合わせても四千人であった。
それでも光清は強気であった。
「ふん。大内の投げた骨に群がる小犬どもとの戦いなど、十分の一の兵力で十分だ!
どっからでもかかってきやがれっ!」
赤穴城は堅固な山城であったが、光清はさらに赤名川をせき止めて赤名盆地を水堀化させて大内軍の来襲に備えた。
六月、ついに大内の大軍が城下に迫ってきた。
「来たよ来たよ〜、うようよ来たよ〜」
満ち満ちる群衆のあまりの多さに、赤穴城の城兵たちも緊張してきた。
「人波どこへながれる〜、日ぐれの街〜」
「何それ?」