5.おじゃん | ||||||||||||||
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のぞき以来、師直の西台への想いは、ますます募る一方であった。
でも、侍従局が出奔してしまったため、仲介する者もいない。
「逢いたいのう〜。西台に逢いたいのう〜」
そんなときに限って、ダンナ塩冶高貞の姿をよく見かける。
「ヤツだ」
師直は慌てて木陰に隠れると、恨めしそうに遠目で「ヤツ」を眺めた。
前は何とも思っていなかったその野郎が、今の師直には憎くて憎くてたまらなかった。
「ヤツは毎日彼女に逢っているのだ。毎晩もてあそんでいるんだ」
メラメラ怒りが込み上げてきた。
結果、よからぬことを考えるようになった。
「そうだ。ヤツさえいなければ、西台は我が胸に飛び込んでくるのだ」
師直は火の無いところに煙を立ててやった。
尊氏と直義に、讒言(ざんげん)したのである。
「塩冶高貞に謀反の動きがあります」
「何じゃと!」
尊氏は驚いた。
直義は疑った。
「確かなことなのか?」
「はい。確かな情報を得ております。もともとヤツは南朝の将。北朝に恭順したように見せかけておいて、いつかいつか南朝に裏切ってやろうと考えていたのでしょう。こしゃくなバカ者です」
「ならば、塩冶を捕らえて問いただすか?」
尊氏が言うのを、直義が止めた。
「もう少し、様子を見るほうがよいかと」
やがて京中にうわさが広まった。師直によって広められたのであろう。
「塩冶高貞が謀反を起こそうとしているそうだ」
「近々、執事様の軍勢によって討伐されるそうだ」
びっくりしたのは、塩冶高貞当人。
「なぜ、そんなうわさが立つ! わしにやましい心はない!
おかしい……。執事殿の気に触ることをしたわけでもなし……」
すると、西台が打ち明けた。
「私が、したんです……」
そして、今までのいきさつを高貞に話すと、
「申し訳ありません!」
と、泣き崩れた。
高貞は妻を抱き寄せた。
「謝ることはない。悪いのは向こうのほうだ。悪い人には、天誅(てんちゅう)を食らわせてやらねばならぬ」
「でも、相手は、あの……」
「相手が誰であろうと、お前をいじめるヤツを許すわけにはいかぬ。心配するな。この京都では太刀(たち)打ちできないが、領国出雲に帰って挙兵すれば、勝ち目はある」
三月二十四日(二十七日とも)早朝、高貞は手勢約三十騎ととも邸宅を出た。蓮台野(れんだいの。京都市北区)や西山(京都市西京区)へ狩りに行くと見せかけて、実は播磨路(山陽道)から出雲へ帰ろうとしたのである。高貞は妻子らには約二十騎の守兵をつけて丹波路から出雲へ落ち延びさせていた。
ところが、ここで高貞の弟・貞泰(さだやす)が裏切った。急いで京都に帰ると、師直に密告したのである。
「高貞夫妻が出雲へ逃れました」
師直は尊氏をせき立てた。
「ヤツを出雲に帰しては一大事ですぞ。追撃を」
「分かっておる」
尊氏は、山名時氏(やまなときうじ)・桃井直常(もものいただつね)・大平出雲守(おおひらいずものかみ。国房?)らに高貞追討を命じた。
「怪しい連中は見かけなかったか?」
「そういえば狩り装束の男たちが女房子供を連れて急ぎ足で歩いているのを見かけましたが」
「どっちに行った?」
「あっちとこっち」
追討軍は二手に分かれると、山名らは播磨路に高貞らを、桃井・大平らは丹波路に西台らをそれぞれ昼夜ぶっ通しで追いかけた。
桃井・大平らは、播磨影山(かげやま。兵庫県姫路市)で西台らに追いついた。
「いたぞ!」
「奥方は殺すな! 執事様に献上して褒美をもらうのだ!」
塩冶八幡六郎(はちまんろくろう)ら高貞の郎党たちは、
「そうはさせるか!」
と、西台と幼い二子を近くにあった小屋に押し入れると、木陰軒陰からバラバラ矢雨を降らせて必死で防戦した。
「うわっ! 歯向かってきた!」
「無駄な抵抗は止めて、奥方を差し出しなさい!」
追討軍は少しでも早くと軽装で追いかけてきたため、矢嵐には近づくことはできない。おのおの急いで重いよろいを身に付け始める。
その間に八幡六郎が次男を近所の僧に預けることに成功したが、何しろ多勢に無勢、幾重にも小屋を取り囲まれ、矢も尽きてきた。八幡六郎らは弓を捨て、太刀に持ち替えて奮戦したが、とても防ぎきれない。
「もうだめだ」
塩冶宗村(むねむら。家貞? 高貞の甥?)が折れた太刀を敵に投げつけると、小屋に入って火を付けた。
小屋の中では、西台が長男を抱えて震えていた。
宗村が勧めた。
「お逃げくだされ。敵は奥方を殺しませぬ」
「この子は?」
「殺されるでしょう」
西台は強く長男を抱きしめた。
「すべて私が原因でこうなったことです。どうか敵の手にかかる前に、殺してください」
宗村は泣きながら太刀を持ち返ると、
「御免!」
と、西台の胸を貫いた。
「あ……」
倒れて動かなくなった母に、
「お母上!」
と、長男が泣きついた。宗村は、長男を抱き寄せると、
「お母上のところへ逝こうか」
と、長男もろとも自分の体を刺し貫いて自害した。
鎮火すると、桃井・大平らが小屋の中にら踊りこんできた。
中には焼け焦げた死体がゴロゴロあるばかりであった。
「クソ! みんな死んでいやがる!」
そして、長男を抱いて死んでいた宗村のありさまを見て、
「これが高貞に違いない」
と、勘違いして、その首を京都に持ち帰っていった。
一方、山名時氏の先陣が播磨加古川(かこがわ。兵庫県加古川市)で高貞らに追いついた。
「我こそは山名伊豆守時氏の嫡男・山名右衛門佐師氏(えもんのすけもろうじ。師義)ぞ! 神妙に勝負いたせ!」
高貞の弟・重貞(しげさだ。六郎)が言った。
「ここは私が食い止めます!
兄上は先にお逃げくだされ!」
「すまぬ!」
高貞は逃げた。
程なくして、重貞以下七騎は全員討ち取られた。
高貞は必死で逃げた。
馬が疲れてくると、捨てて徒歩で逃げた。道を替えて逃げた。少ない手勢を裂いて、播磨置塩山(おきしおやま・おじおやま。小塩山。姫路市)で待ち伏せ攻撃もさせてみた。
三月末日、高貞はどうにか領国出雲にたどり着くことができた。
しかし翌四月一日には、山名時氏・師氏父子らも出雲屋来荘(やすぎのしょう。島根県安来市)へ入った。
高貞は佐々布山(さそうやま。島根県松江市)に立てこもり、最後の決戦を試みようとした。
が、丹波路から逃げ帰ってきた家来から、妻子の最後を聞いて闘志も失せてしまった。
「もはや生きていても仕方がない」
そのまま馬上で自害してしまったのである。
配下の木村源三(きむらげんぞう)が泣く泣く主人の首を深田に埋め隠し、自分も自害したが、泥の跡をたどってきた山名の家来によって首は発見されてしまった。
高貞の首は師直のところに届けられた。
が、彼はそんなものには興味なかった。
「西台はどうした?」
「亡くなられました」
「死んだだと……」
師直は悔しかったことであろう。
「そんなー! わしは何のために事を起こしたのだぁー!」
観応二年(1351 正平二年)二月二十六日、師直はかつて謀殺した上杉重能(うえすきしげよし)の養子・能憲(よしのり)らによって摂津武庫川(むこがわ。兵庫県西宮市・尼崎市境)にて惨殺された。
師直の暴走は、かつて暴挙を加えた縁者によって止められたわけである。
[2003年11月末日執筆]
[2003年12月加筆]
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