91.泥酔味 基礎用語集

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院政(いんせい)
 上皇(譲位した天皇)や法皇(出家した天皇)が実質的に国政を行う形態。1086白河(しらかわ)上皇が初めて行い、1840光格(こうかく)上皇が没するまで断続的に行われたが、1221承久(じょうきゅう)の乱以降の院政は形式的。

院近臣(いんのきんしん)
 院政期に院(上皇・法皇)や女院の側近として権勢を振るった廷臣。官位は低いが天皇家の血縁者が多く、受領(ずりょう)を歴任したため富豪が多かった。白河院政の藤原顕隆(ふじわらのあきたか)・高階為章(たかしなためあきら)・源俊明(みなもとのとしあきら)、鳥羽院政の藤原顕頼(あきより)・藤原家保(いえやす)・藤原家成(いえなり)・寛助(かんじょ)、後白河院政の藤原通憲(みちのり。信西)・藤原信頼(のぶより)・藤原隆季(たかすえ)・藤原邦綱(くにつな)・俊寛(しゅんかん)などが有名。

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置頃に始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

桓武平氏(かんむへいし)≦平氏
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。

貴族(きぞく)
 家柄や身分の高い人。五位以上の役人。古代では三位以上を貴といい、五位以上を通貴といった。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

蔵人頭(くろうどのとう)
 蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。詐欺味1

軍部(ぐんぶ)
 陸海空軍などの総称。特に陸軍省(長は陸相)・海軍省(長は海相)・参謀本部(長は参謀総長)・軍令部(長は軍令部総長)など政治に関わる上層部のこと。

検非違使(けびいし)
 令下官(りょうげのかん。律令未規定の官職)の一つ。平安京の治安維持に努めた。九世紀初めに嵯峨(さが)天皇が設置し、824検非違使庁を創設した。次第に権限を拡大し、弾正台(だんじょうだい)・京職(きょうしき)・衛門府(えもんふ)などを有名無実化していった。

建武の新政(けんむのしんせい)=建武の中興(ちゅうこう)=建武政権
 (1333-1336) 鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇の政治(政権)。1333鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、中央に記録所(政務)・雑訴決断所(訴訟)・恩賞方(論功行賞)・武者所(軍事・警察。頭人新田義貞)など、地方に鎌倉将軍府(関東統治)・陸奥将軍府(東北統治)・国司・守護などを設置して親政を行ったが、1336足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱によって崩壊した。

強訴=嗷訴(ごうそ)
 平安時代中期以降に僧兵や神人(じにん)らが神仏を擁して起こしたデモや暴動のこと。江戸時代のものは、農民が公的な手続きをしないで領主に対して年貢軽減を求めたことをいう。

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

自衛隊(じえいたい)
 (1954-) MSA協定(日米相互防衛援助協定)により、保安隊と警備隊を改組して発足した日本の防衛組織。防衛省に所属する陸上・海上・航空自衛隊の三隊。内閣総理大臣の統率のもと防衛相(2007まで防衛庁長官)が隊を総括。
内乱味

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。神祗官(じんぎかん)は伯(はく・かみ)・副(ふ・すけ)・祐(じょう)・史(さかん)、八省は卿(きょう・かみ)・輔(ふ・すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、職は大夫(だいぶ・かみ)・亮(すけ)・進(じょう)・属(さかん)、寮は頭(かみ・とう)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち・かみ)・弐(に・すけ)・監(げん・じょう)・典(てん・さかん)、鎮守府は将軍(しょうぐん・かみ)・副将軍(ふくしょうぐん・すけ)・軍監(ぐんげん・じょう)・軍曹(ぐんそう・さかん)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

白河法皇(しらかわほうおう)←白河上皇(じょうこう)←白河天皇(てんのう)←貞仁親王(さだひとしんのう)
 (1053-1129) 伝七十二代天皇(在位1072-1086)。後三条(ごさんじょう)天皇の第一皇子。母は藤原公成の娘・茂子。1068父の即位で親王になり、1070立太子、1072父の譲位によって即位し、1086子の堀河(ほりかわ)天皇に譲位して院政(いんせい)を開始、摂関家や弟の輔仁(すけひと)親王を牽制し、北面の武士を設置して武力を強化、東山に法勝寺(ほっしょうじ)を建て、孫・鳥羽(とば)天皇、ひ孫・崇徳(すとく)天皇の即位も見届けて実権を握り続けた。

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。

摂関家(せっかんけ)
 摂政・関白を独占して世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば、神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

(そう)
 (960-1279) 中世中国の王朝。趙匡胤(ちょうきょういん)が創始。首都は北宋は開封(かいほう)、南宋は臨安(りんあん。杭州)。北宋は1127金(きん)に、南宋は1279元(げん)に滅ぼされた。平氏政権や鎌倉幕府は南宋と日宋貿易を展開した。

太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)
 律令制における太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)であるが、奈良時代に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が任ぜられた太師(たいし。大師)や、道鏡(どうきょう)が任じられた太政大臣禅師もこれに相当する役職。

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。

平 忠盛(たいらのただもり)
 (1096-1153) 武将。正盛(まさもり)の子。白河法皇(しらかわほうおう)に仕え、左衛門少尉・検非違使・伯耆守などを歴任、鳥羽上皇(とばじょうこう)の近臣となり、山陽・南海の海賊追捕に活躍、備前守・刑部卿などを務め、日宋貿易に関与、内昇殿を許された。泥酔味

平 正盛(たいらのまさもり)
 (?-?) 武将。正衡(まさひら)の子。忠盛(ただもり)の父。1097伊賀の所領を寄進して白河上皇(しらかわじょうこう)の北面の武士となり、祗園女御(ぎおんにょうご)や藤原顕季(ふじわらのあきすえ)と提携、1108源義親の乱を平定し、海賊追捕や強訴阻止に活躍、但馬守・右馬権頭などを歴任した。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

鳥羽法皇(とばほうおう)←鳥羽上皇(じょうこう)←鳥羽天皇←宗仁親王(むねひとしんのう)
 (1103-1156) 伝七十四代天皇(在位1107-1123。院政1129-1156)。堀河(ほりかわ)天皇の第一皇子。母は藤原実季(ふじわらのさねすえ)の娘・苡子(いし)。1103即位し、1123祖父・白河(しらかわ)法皇の命によって崇徳(すとく)天皇に譲位、1118最勝寺(さいしょうじ)を建立し、1129法皇没後に院政を開始、祖父に避けられていた藤原忠実(ふじわらのただざね)を再登用し、1141近衛天皇を擁立、1155その没後は白河天皇を擁して崇徳上皇と対立し、1156の保元(ほうげん)の乱の原因を作った。
泥酔味

南都・北嶺(なんと・ほくれい)
 比叡山(ひえいざん。滋賀県大津市)の延暦寺(えんりゃくじ)と奈良(奈良県奈良市)の仏教勢力、特に興福寺(こうふくじ)のこと。延暦寺と興福寺は平安時代以降、強力な僧兵(そうへい)を抱え、朝廷に対してしばしば強訴(ごうそ)を行った。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

藤原忠通(ふじわらのただみち)
 (1097-1164) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原忠実の長男。母は源顕房の娘・師子。1121白河上皇に罷免された父に代わって関白となり、太政大臣に昇進、崇徳(すとく)天皇・近衛(このえ)天皇の摂政を務め、後に関白にもなるが、白河法皇没後に父と対立して1150義絶、氏長者を弟の頼長(よりなが)に奪われるが、1156保元(ほうげん)の乱で後白河天皇に味方して勝利し、氏長者に再任、1158関白を子の基実(もとざね)に譲り、書道の法性寺流を興した。

藤原頼通(ふじわらのよりみち)
 (992-1074)公卿。摂政・関白・太政大臣。道長の長男。母は源倫子(りんし)。1003正三位となり、1017摂政内大臣に就任、1019父の出家後に関白となり、1021左大臣に昇進、1053宇治に平等院鳳凰堂を建て、1061太政大臣に就任、1064弟・教通(のりみち)に氏長者を譲り、1068政界から引退して宇治に住んだ。
総理味

平家物語(へいけものがたり)
 軍記物語の一。鎌倉時代成立。信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)?著。 平家一門の興亡を描く。琵琶法師(びわほうし)によって語られ。広められた。

保元の乱(ほうげんのらん・ほげんのらん)
 1156上皇派(崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正ら)と天皇派(後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛ら)が京都で戦った内乱。戦いは天皇派の夜襲が成功し、一日で決着。頼長は敗死し、為義・忠正らは処刑され、崇徳上皇は讃岐へ流された。

源為義(みなもとのためよし)
 (1096-1156) 武将。義親(よしちか)の子。1108父が平正盛(たいらのまさもり)に討たれたため、叔父・義忠(よしただ)の養子となり、1109養父を殺害した叔父・義綱(よしつな)を討伐、強訴鎮圧に参加し、左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)などを歴任、1154八男・為朝(ためとも)乱行の責任を取って隠居し、長男・義朝(よしとも)に家督を譲渡、1156保元(ほうげん・ほげん)の乱で崇徳(すとく)上皇につき、敗れて処刑された。

源義家(みなもとのよしいえ)=八幡太郎(はちまんたろう)
 (1039-1106) 武将。源頼義(よりよし)の子。1051-1062前九年の役(ぜんくねんのえき。前九年合戦)に従軍し、1063出羽守に、1083陸奥守・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任、1083-1087後三年の役(ごさんねんのえき。後三年合戦)で清原清衡(きよはらのきよひら。後の藤原清衡)を助け、清原家衡(いえひら)・清原武衡(たけひら)を討ち、武家の棟梁(とうりょう)の地位を確立、1098院の昇殿を許された。

蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)=三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)
 京都市東山区所在。蓮華王院は1164後白河法皇(ごしらかわほうおう)が鳥羽上皇(とばじょうこう)の得長寿院(とくちょうじゅいん)にならって平清盛(たいらのきよもり)に命じて創建した天台宗の寺。妙法院所管。現本堂は1266再建で国宝。通し矢で有名。

郎党=郎等(ろうとう)=郎従(ろうじゅう)
 武士団を構成する武士たち。家来。家臣団。

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