232.変異味 基礎用語集

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桓武平氏(かんむへいし)≦平氏・平家(へいけ)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。⇒桓武平氏系図

貴族(きぞく)
 家柄や身分の高い人。五位以上の役人。古代では三位以上を貴といい、五位以上を通貴といった。

京都(きょうと)=京(きょう)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。平安〜江戸時代の日本の首都(帝都)。794桓武天皇による平安京遷都に始まり、平安時代は皇族のち貴族が政治を主導、武家政権が鎌倉に成立した後も京都守護のち六波羅探題が、室町時代には室町幕府が、江戸時代には京都所司代が置かれ、明治維新後も文化の中心として継続した。

空海(くうかい)=弘法大師(こうぼうだいし)
 (774-835?) 僧。真言宗・書道大師流の祖。書道三聖・三筆の一。佐伯田公(さえきのたきみ)の子。上京して大学へ学んだ後に出家し、804遣唐使に従って入唐、青竜寺の恵果(けいか)に密教を学んで806帰国し、高雄山寺に居住、816嵯峨天皇に高野山を賜り金剛峰寺を、823東寺を賜り教王護国寺(きょうおうごこくじ)を創建して真言宗を布教、824少僧都・827大僧都となり、828綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設、『三教指帰(さんごうしいき)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』などを著し、最澄(さいちょう)宛の書簡「風信帖(ふうしんじょう)」を残した。三密味 引籠味

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図
諾威味

清和上皇(せいわじょうこう)←清和天皇←惟仁親王(これひとしんのう)
 (850-880) 伝五十六代天皇(在位858-876)。父は文徳(もんとく)天皇。母は藤原良房(よしふさ)の娘・明子(あきらけいこ・めいし)。父の死で九歳で即位し、藤原良房が摂政として補佐、876陽成(ようぜい)天皇に譲位し、清和源氏の祖となった。
諾威味

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇につき勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。変異味 高齢味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。1869から事実上の首都は東京。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

平治の乱(へいじのらん)
 1159院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と源氏の当主・源頼朝(みなもとのよしとも)らが院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)や平氏の当主・平清盛(たいらのきよもり)らに対して起こした反乱。信頼・義朝らは清盛が熊野詣に出かけている間に後白河(ごしらかわ)法皇の三条殿を急襲、信西を討って朝廷の実権を握るが、戻ってきた清盛に六条河原で敗れ、信頼は処刑され、義朝は東国へ落ち延びる途中で殺された。変異味

源義朝(みなもとのよしとも)
 (1123-1160) 武将。為義(ためよし)の子。頼朝・義経らの父。1153下野守となり、1154家督を継承、1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝ち、左馬頭(さまのかみ)に就任するが、清盛らと対立、1159平治(へいじ)の乱で院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と結び、院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)を討つが、平清盛(たいらのきよもり)に敗れ、東国へ落ち延びる途中、尾張で長田忠致(おさだただむね)に殺された。

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