3.急かなくとも事を仕損ずる

ホーム>バックナンバー2022>令和四年5月号(通算247号)降伏味 平忠常の乱3.急かなくとも事を仕損ずる

ウクライナ戦争の行方
1.火のないところに煙立つ
2.心中より陳情
3.急かなくとも事を仕損ずる
4.毒食らわばシャモジまで

 長元元年(1028)八月五日、追討使・平直方らは随兵二百騎を率いて東国へ向かった。
 平忠常は覚悟を決めた。
「理不尽で不当な攻撃だ。攻撃がもたらす死と破壊の責任は、朝廷のみが負う」 
 忠常らは上総夷隅郡の山にこもって徹底抗戦することにした。

 翌長元二年(1029)二月、朝廷は、
「諸国あいともに忠常を追討すべし」
 と、東海道東山道北陸道諸国に官符を発行して増兵、直方の父・平維時を上総に任じ、六月にも三度目の追討官符を発してさらに援軍を送ったが、乱を平定することはかなわなかった。

 十二月、中原成通が追討使を解任された。
「朝廷への戦況報告を怠った」
 のが理由であった。
 そもそも中原は最初からやる気なかった。
「老母が病気なんです〜」
 理由をつけて関東へは赴かず、ずっと美濃で滞陣していたのである。

「追討使、恐れるに足らず」
 長元三年(1030)三月、忠常安房国府を急襲した。
「こっ、殺される〜! 平維忠みたいに焼き殺されたくねぇー!!」
 安房・藤原光業
(みつなり)は京へ逃亡した。
忠常に攻められたんで、とっとと逃げてきました〜」
「印鑰
(いんやく)は?」
「しまった! 置いてきちまった!」
「何してるんだ! 印鑰は国司の正当性を表す最重要なものだ! 忠常に反抗しまくられた上にハンコも押しまくられたらどーすんだ!」
「すみませーん」
 後任の安房には追討使の候補にも挙がった平正輔が選ばれたが、
「拙者は伊勢で平致経と相続争い中なんで」
 と、現地に赴任しようとはしなかった。

「まったく、どいつもこいつも何をやっているんだ」
 怒った藤原頼通は平直方も解任した。
 結局、九月に改めて源頼信を追討使に任命したのである。
「最初からそうすればよかったんじゃ〜」
 実資はほくそ笑んだ。

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