247.降伏味 基礎用語集

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アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

犬追物(いぬおうもの)
 騎射の練習法の一つ。流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)とともに騎射三物の一。馬場に放した犬を馬上から弓で射た。犬を害さないように矢は蟇目(ひきめ)を使用することもあった。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

勘解由使(かげゆし)
 令下官(りょうげのかん。律令未規定の官職)の一つ。官人交替事務を監査した。797桓武(かんむ)天皇が国司交替の際の不正を防ぐために設置。806廃止。824再置。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

畿内(きない)=五畿(ごき)=山城国(やましろのくに)+大和(やまと)国+河内(かわち)国+摂津(せっつ)国+和泉(いずみ)国・七道(しちどう)=東海道(とうかいどう)+東山(とうさん)道+北陸(ほくりく)道+山陽(さんよう)道+山陰(さんいん)道+南海(なんかい)道+西海(さいかい)道
 古代の行政区分。首都(西海道は大宰府)を起点にした官道(主要道路)が通っていた。以下の七つ。所属国・国数・郡数は平安中期のもの。⇒旧国名一覧

国司(こくし)
 古代に諸国の政務をつかさどった地方官。現在でいう都道府県庁高官に相当。長官(守・かみ)・次官(介・すけ)・判官(掾・じょう)・主典(目・さかん)という四等官(しとうかん。幹部のこと)が朝廷から派遣され、国衙(こくが。国庁とも。役所のこと)に勤務し、郡司(ぐんじ)・里長(りちょう・さとおさ)らを支配した。天武天皇の頃に成立し、鎌倉時代に守護・地頭勢力に押されて衰退した。

検非違使(けびいし)
 令下官。平安〜室町時代の京の警察・裁判官。九世紀初めに嵯峨(さが)天皇が設置し、824検非違使庁を創設、次第に権限を拡大し、弾正台(だんじょうだい)・京職(きょうしき)・衛門府(えもんふ)などを形骸化していった。

在庁官人(ざいちょうかんじん・ざいちょうかんにん)=在庁=在庁人
 平安時代中期〜鎌倉時代に国衙(こくが)で実務をとった役人。中央から派遣される国司より格下で、主に地方豪族が任命され、同職を世襲した。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

平 忠常(たいらのただつね)
 (967-1031) 武将。千葉氏・上総氏などの祖。忠頼の子。下総を本拠に勢力を振るい、武蔵国押領使・上総介に就任、1028安房守・平維忠(たいらのこれただ。または源惟忠)を殺害、次の安房守・藤原光業(ふじわらのみつなり)を追って房総地方を制圧したが、1030甲斐守・源頼信(みなもとのよりのぶ)に降伏(平忠常の乱)、1031京都に護送される途中に美濃で没した。
降伏味

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
 (1028-1031) 前上総介・平忠常が房総で起こした反乱。忠常は上総・下総に威を張り、1028安房も制圧、追討使・平直方にも負けなかったが、1030追討使が源頼信に代わると、1031戦わずして降伏、京へ護送される途中に死亡した。
降伏味

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)
 (939or931-940) ^平将門が関東で起こした反乱。931平将門は叔父・平良兼と抗争し、935源護(みなもとのまもる)と平真樹(まさき)に介入、伯父・平国香とも対立して殺害して936入獄し、大赦で帰国後も一族と抗争、武蔵や常陸の紛争に介入し、939藤原玄明(はるあき)を支援して常陸国司に反旗を翻し、関東諸国を次々と制圧、新皇を自称し、兄弟らを関東諸国司に任じたが、940藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)に敗死した。
悪党味

内大臣(ないだいじん)
 令外官。右大臣に次ぐ地位。藤原鎌足が初めて任じられた内臣の後身とみられるが、内大臣としては光仁天皇代の藤原良継が最初。明治時代には1885天皇側近の官職として宮中に復活設置され、三条実美が初めて就任、後継首相の推薦などに影響力を持ったが、1945敗戦を機に木戸幸一を最後として廃止された。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。1869から事実上の首都は東京。

藤原頼通(ふじわらのよりみち)
 (992-1074)公卿。摂政・関白・太政大臣。道長の長男。母は源倫子(りんし)。1003正五位下になり、1006正三位、1017内大臣になり、後一条天皇の摂政に就任、1019父の出家後は関白となり、1021従一位・左大臣に昇進、後朱雀天皇・後冷泉天皇代にも関白を務め、1053宇治に平等院鳳凰堂を建立、1061太政大臣に就くが、1064弟・教通(のりみち)に氏長者を譲り、1068政界から引退して宇治に住んだ。
総理味 降伏味 変節味

北条義時(ほうじょうよしとき)
 (1163-1224) 武将。鎌倉幕府二代執権(在職1213-1224)。時政(ときまさ)の子。父とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従軍、1205姉の政子(まさこ)とともに父を追放して政所(まんどころ)別当に就任、1213和田合戦(わだかっせん。和田氏の乱)で和田義盛(よしもり)を滅ぼし、侍所(さむらいどころ)別当を兼ねて執権政治を確立、1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、摂家(藤原)将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎え、1221承久(じょうきゅう)の乱に勝って後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇を配流、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、多数の荘園を没収して新補地頭(しんぽじとう)を任命、朝廷監視のため六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。排除味 将軍味
栄光味 挑発味

源 満仲(みなもとのみつなか)
 (913?-997) 武将。源経基(つねもと)の子。摂津多田荘を拠点とし、諸国の受領を歴任、摂関家に接近し、969安和の変の密告によりライバル武士・藤原千晴(ふじわらのちはる)を排除した。
安倍味

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)らと戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじかわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。不倫味 
排除味

源 頼信(みなもとのよりのぶ)
 (968-1048) 武将。河内源氏の祖。満仲の子。藤原道長に仕え、甲斐守となり、1031追討使として平忠常の乱を平定、美濃守となって東国への源氏進出のきっかけとなり、河内守・常陸介・鎮守府将軍などにもなった。
降伏味

源頼義(みなもとのよりよし)
 (988-1075) 武将。頼信(よりのぶ)の子。義家(よしいえ)の父。1031父とともに平忠常(たいらのただつね)の乱を平定し、武蔵守等を務めて東国に勢力を拡大、1053鎮守(ちんじゅ)将軍となり、1051-1062前九年(ぜんくねん)の役で安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)を破って伊予守になり、1063鎌倉に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請、鶴岡(つるがおか)八幡宮を創建して源氏の氏神とした。
降伏味

郎党=郎等(ろうとう・ろうどう)
 有力者の側近や子分。中世武家社会では、惣領に仕える従者。

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