1.孝徳天皇即位 | ||||||||||||||
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古人大兄皇子 PROFILE | |
【生没年】 | ?-645 |
【出 身】 | 古人皇子・古人大市皇子 ・吉野太子・吉野古人皇子 |
【出 身】 | 河内国古市郡?(大阪府河内長野市) |
【本 拠】 | 古市→大倭国飛鳥(奈良県明日香村) →吉野(奈良県吉野町) |
【職 業】 | 皇族(皇太子格) |
【 父 】 | 舒明天皇 |
【 母 】 | 蘇我法提郎媛(馬子の女) |
【継 母】 | 皇極(斉明)天皇ら |
【 妻 】 | 数人 |
【 子 】 | 倭姫王(天智天皇皇后)ら |
【兄 弟】 | 中大兄皇子(天智天皇) ・大海人皇子(天武天皇)ら |
【盟 友】 | 蘇我入鹿ら |
【部 下】 | 蘇我田口川堀・吉備笠垂 ・物部朴井椎子・倭漢文麻呂 ・朴市秦田来津ら |
【仇 敵】 | 中大兄皇子 |
【没 地】 | 吉野 |
皇極天皇四年(645)六月十二日、中大兄皇子・中臣鎌子らは飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや。奈良県明日香村)において大臣格・蘇我入鹿を暗殺、翌十三日、その父・蘇我蝦夷も自殺に追い込んだ。
これにて蘇我本宗家は滅亡したのである(「蘇我氏系図」参照)。
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現在の吉野(奈良県吉野町)周辺 |
十四日、伝三十五代天皇・皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し(孝徳天皇)、中大兄皇子は皇太子となった(「天皇家系図」参照)。
同日、阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂。「阿倍氏系図」参照)が左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣に、中臣鎌子(「中臣氏系図」参照)が内臣に、高向玄理と旻が国博士に任じられた。
当初、孝徳天皇は天皇になるのを断った。
「天皇には皇太子がなるべきです。皇太子は古人大兄皇子です。それに彼は年長者です。即位すべきは古人太子ではありませんか」
古人大兄皇子は伝三十四代天皇・舒明(じょめい)天皇の長子である(「天皇家系図」参照)。年齢は不明だが、三十代前半と思われる。母は蘇我馬子の娘・法提郎媛(法提郎女。ほほてのいらつめ・ほうてのいらつめ)で、この二年前に入鹿が山背大兄王を斑鳩宮(いかるがのみや。奈良県斑鳩町)に攻め殺した後、入鹿によって皇太子(または皇太子格)に立てられたと思われる。ちなみに「大兄」というのは、皇太子格の皇子に与えられた称号であろう。
しかし、譲位話を聞いた古人大兄皇子は断った。
「天皇陛下のおっしゃることは絶対です。天皇陛下は軽皇子さまへの譲位をお望みなのです。私は出家して吉野(奈良県吉野町)で暮らします。仏道修行に励み、陰から天皇家のみなさまの御多幸を願いたいと思います。それではお達者で」
古人大兄皇子は腰の太刀(たち)を解いて放り投げると、配下の者たちにも刀を解かせ、法興寺で髪とひげをそり、袈裟(けさ)を着てしまった。
そのため孝徳天皇はやむなく即位したという。