4.決 着 〜藤原伊周・隆家兄弟左遷! | ||||||||||||||
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うわさは藤原道長の耳にも入った。
「何。隆家が花山法皇の車を射ただと……」
「はい。どうも伊周が自分の女にちょっかいかけられたと勘違いしたようで」
道長は喜んだ。
「それにしても、法皇の車を射るとは尋常ではない。捨て置けないな」
そう言うと道長は、伝えてきた者にささやいた。
「こういったうわさは大々的に大げさに広めるように」
まもなく、うわさにはあちこちヒレが付けられた。
「藤原隆家殿が花山法皇の車を射たそうな」
「矢は法皇の上着のそでを貫通したそうな」
「下手人は法皇の従者二人を殺し、その首を持ち帰ったそうな」
いつのまにか殺人事件になってしまっていた。
また、道長は寝込んでみた。そして、血色の良い顔で不思議がった。
「どうもこのごろ体調が悪い。誰かが呪(のろ)っているのかもしれない」
詮子も思い出したかのように突然寝込んだ。おなかを押さえているのに、
「頭が痛い〜」
と、言い出した。
道長は吹き出した。マジな顔に戻ると、首をかしげた。
「おかしい。姉弟そろって体調が悪いのは、呪詛(じゅそ)のせいに違いない」
「イタタタ。誰がそのような恐ろしいことを……。くわばらくわばら」
「あいつらだ。法皇を殺そうとした、あの物騒兄弟に決まっている。ほかに考えられない」
三月も末になると、詮子はわざとらしく重病になった。
伊周・隆家兄弟は反論した。
「我々が法皇を殺そうだなんてとんでもない! 女院や右大臣を呪うこともありえない! 確かに僧や陰陽師は雇っている。しかし、我々が依頼しているのは、中宮の安産祈願だ!」
道長は驚いた。
(中宮定子が妊娠しているだと!)
ゆゆしき事態である。
定子が一条天皇の初皇子を出生すれば、天下様は伊周のところに飛んでいってしまうではないか。
道長は思った。
(どうにも伊周らには失脚してもらわなければなるまい)
道長は伊周が祈祷(きとう)を依頼していた法琳寺(ほうりんじ。京都市伏見区)に手を回した。
法琳寺の僧はブツをそでに隠すと、いやな笑みを浮かべた。
「閣下はワルですなぁ。へっへっへぇ」
そして、渡されたカンペを見ながら、こんな密告をした。
「安産祈願なんてとんでもない。手前どもが伊周殿に依頼されたのは大元帥法(たいげんのほう・たいげんすいほう)です」
「大元帥法ぅぅぅ!」
道長は奇声を上げて驚いた。
大元帥法は法琳寺に伝えられてきた真言密教(しんごんみっきょう)の秘法である。
大元帥明王(だいげんみょうおう・だいげんすいみょうおう)を主尊とし、国王の力を増強させて国賊を調伏する大法であり、臣下がこれを行うことは許されなかった。
「その秘法を、こともあろうに伊周がやりやがった……。断じて許せることではない!」
四月二十四日、道長は除目(じもく。人事)を行った。
そして、
一、花山法皇を射たこと
一、東三条院藤原詮子を呪ったこと
一、大元帥法を行ったこと
以上の三点から、伊周を大宰権帥(だざいのごんのそち)に、隆家を出雲権守(いずものごんのかみ)に左遷したのである。
伊周の住む二条邸は、検非違使の兵に包囲された。
二条邸には定子や隆家らも住んでいた。高階家の人々も潜んでいた。
検非違使・惟宗允亮(これむねのただすけ)は左遷の宣命を読み上げた。
伊周らは憤った。
「むちゃくちゃな話だ! すべてでっち上げだ! 我々は何も悪いことをしていない!
左遷されるはずがなかろう!」
「つべこべ言わずにおとなしく外へ出なさい」
「ボクは悪くない! 出て行くものか!」
「出てこなければ、踏み込みますよ」
「ひかえろ! 中宮がおわします邸宅であるぞ!」
五月一日、検非違使らは一条天皇の許可を得て、邸内に強行突入した。
隆家は即座に逮捕されたが、伊周はその前夜にひそかに逃亡していたため、その姿はなかった。
「どこかに潜んでいるはずだ」
検非違使らは床や天井も打ち壊して探したが、見つからなかった。
「どこへ行きやがった?」
問われた従者が、
「あの、その、愛宕山(あたごやま。京都市右京区)なんかのほうへ」
と、適当に答えたため、捜索は都の郊外にも拡大した。
その日、定子はさめざめと泣くと、自ら髪を切って尼になった。
三日後、伊周は僧形となって母と共に自首してきた。
「ボクは全然悪くないが、逃げられないと思ったから帰ってきてやった」
この間、伊周は北野天満宮(きたのてんまんぐう。京都市上京区)に詣で、山城木幡(こはた。京都府宇治市)にある道隆の墓に参じてきたという。
北野天満宮の祭神は、御存知菅原道真(「受験味」参照)である。伊周は無実の罪で流された道真、および父に自分は無実であるということを訴えたかったのであろう。
伊周はしばらく播磨に置かれた後、十二月にようやく大宰府へ護送された。
しかもこの翌年三月には、彼は罪を許され、十二月に帰京、その四年後には本位に復した。
伊周は苦笑した。
「道長叔父はボクのいないわずかな間にその権勢を磐石なものにした。だから、もう政治的に無能になったボクを呼び戻したんだ」
その通りであった。もう一つは、悪くもない人を罰し続けていることが居たたまれなくなったのであろう。
長保二年(1000)十二月、中宮定子は没した。享年二十五。
寛弘七年(1010)一月には、伊周も死んだ。享年三十七。
寛弘八年(1011)六月には一条天皇も亡くなった。享年三十二。
そんなある日、道長は隆家と共に賀茂神社(かもじんじゃ。上賀茂神社+下鴨神社。京都市北区・京都市左京区)へ詣でた。
その折、道長は長徳の変のことを話題にした。
「あの時は亡き天皇がお前たちを左遷にせよとうるさくてな。私は涙を飲んで仕方なく、天皇の命令に忠実に従ったまでなんだよ」
このとき隆家は、いったいどんな顔をしていたであろうか。
それにしても藤原道長。
まったく、なんてヤツであろうか。
[2003年8月末日執筆]
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