78.三浦味 基礎用語集

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足利持氏(あしかがもちうじ)
 (1398-1439) 武将。四代鎌倉公方(在職1409-1439)。満兼(みつかね)の子。1409父の死で鎌倉公方を継ぎ、幕府の助力で1416-1417上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう。氏憲)の乱を平定、足利義持(よしもち)に反発と謝罪を繰り返し、1429クジで将軍となった足利義教(よしのり)と対立、1438離反した関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)を攻めて幕府軍に敗れ、1439憲実に攻められて自殺した(永享の乱)。
クジ味

アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

永享の乱(えいきょうのらん)
 (1438-1439) 鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)と関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)及びこれを後援する室町幕府軍との戦い。六代将軍足利義教(よしのり)に不満を持つ持氏は1438挙兵、離反した憲実を攻めるが、上杉持房(もちふさ)率いる幕府軍に敗れ、三浦時高(みうらときたか)らの裏切りもあって降伏、出家するが1439憲実に攻められて自殺した。これによって鎌倉府は事実上滅亡し、以後は関東管領上杉氏が実権を握った。クジ味

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

江戸城(えどじょう)→皇居
 東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営し、1457太田道灌(おおたどうかん)が築城、後北条氏の支城となり、1590徳川家康(とくがわいえやす)が改築、1603以降は将軍在所となり、1868に明治天皇が入城して皇居となった。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上後は再建されなかった。

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)=扇谷上杉氏
 関東管領を継承した上杉氏のうち、鎌倉扇谷を本拠とした一流。祖は上杉重顕(しげあき)。永享の乱で没落した鎌倉公方に代わって持朝(もちとも)が勢力を伸ばし、その子・定正(ざだまさ)も太田道灌(おおたどうかん)を用いて勢力を拡大、山内上杉家と対抗するが、道灌を殺害してしまったことや後北条氏の台頭によって衰退、1546朝定(ともさだ)が北条氏康(ほうじょううじやす)に敗れて滅亡した。

岡崎正宗(おかざきまさむね)=五郎入道(ごろうにゅうどう)正宗
 (?-?) 鎌倉時代の相模の刀工。三作の一人。相州物を大成。「庖丁正宗」「日向正宗」などが現存。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉公方(かまくらくぼう)=鎌倉御所(かまくらごしょ)=関東御所=関東公方≦鎌倉殿
 室町幕府の東国統治機関・鎌倉府の長官。室町幕府関東支店長。足利尊氏(あしかがたかうじ)室町幕府創設の際、子・義詮(よしあきら)を鎌倉にとどめて鎌倉御所と呼んだのが起源。1349義詮上洛後は弟・基氏(もとうじ)が初代鎌倉公方となり、氏満(うじみつ)・満兼(みつかね)・基氏(もとうじ)・成氏(しげうじ)と世襲した。1438-1439永享(えいきょう)の乱後、鎌倉府は事実上滅亡し、実権は消滅した。1455成氏は関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)殺害の罪で追われ、下総古河(しもうさこが。茨城県古河市)に逃れた(古河公方)。クジ味

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置頃に始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

関東管領(かんとうかんれい)
 鎌倉公方の補佐役。室町幕府関東支店長代理。1336足利義詮(あしかがよしあきら)鎌倉下向で斯波家長(しばいえなが)に補佐させたのが起源。初代関東管領は高師冬(こうのもろふゆ)と上杉憲顕(うえすぎのりあき)。上杉氏が世襲し、永享(えいきょう)の乱後は鎌倉公方の勢力をしのぐが、内部抗争や後北条氏の台頭で関東地方を追われた。最後の関東管領は上杉謙信(うえすぎけんしん)。

桓武平氏(かんむへいし)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。

軍記物語(ぐんきものがたり)=軍記物=戦(いくさ)物語=戦記物語≦軍記
 戦乱を主な題材とした物語。平安時代に書かれた『将門記(しょうもんき)』『陸奥話記(むつわき)』、鎌倉時代に書かれた『保元物語』『平治物語』『平家物語』『太平記』などが有名。

古今伝授(こきんでんじゅ)
 『古今和歌集』の解釈の秘伝を弟子に伝授したこと。美濃郡上(みのぐじょう)領主・東常縁(とうのつねより)が正風連歌(しょうふうれんが)の祖・宗祗(そうぎ)に伝えたのが特に有名。三箇大事・三鳥大事・三才大事などの秘事がある。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

清浄光寺(しょうじょうこうじ)=遊行寺(ゆぎょうじ)=藤沢道場
 神奈川県藤沢市所在。時宗総本山。1325時宗四世呑海(どんかい)が清浄光院を創建し、足利尊氏(あしかがたかうじ)から寺領を寄進されて清浄光寺と改称、戦災で焼失するが、1607時宗三十二世普光(ふこう)が徳川家康(とくがわいえやす)の後援で再興した。寺宝の「一遍上人絵伝」は国宝。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味
 

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。伊豆・相模を切り取った北条早雲(ほうじょうそううん。伊勢宗瑞)がその先駆者とされる。

太平記(たいへいき)
 軍記物語の一。四十巻。応安年間(1368-1375)成立。小島法師?著。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱を描く。暴走味 

平 将門(たいらのまさかど)
 (?-940) 武将。良持(よしもち。良将)の子。初め京都で関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕え、下総に帰国後、931伯父・平良兼(よしかね)と対立、931伯父・平国香(くにか)を殺し、その子・平貞盛や良兼らを撃破、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)国府を攻略し、ほぼ関東一円を支配、新皇(しんのう)を称し、下総猿島(さしま)を内裏としたが、940貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれた(平将門の乱)。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

平家物語(へいけものがたり)
 軍記物語の一。鎌倉時代成立。信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)?著。 平家一門の興亡を描く。琵琶法師(びわほうし)によって語られ。広められた。

北条氏綱(ほうじょううじつな)←伊勢(いせ)氏綱
 (1487-1541) 武将。相模小田原城主。伊豆・相模・武蔵等領主。後北条氏第二代。1518家督を譲られ、1523北条と改姓、1524武蔵江戸城・河越城を奪取して武蔵を制圧し、第一次国府台の戦で足利義明(あしかがよしあき)・里見義尭(さとみよしたか)を撃破、鶴岡八幡宮を大改築した。
三浦味

北条早雲(ほうじょうそううん)=伊勢宗瑞(いせそうずい)←伊勢新九郎(しんくろう)
 (1432or1456-1519) 武将。後北条氏の祖。名は盛時(もりとき)・長氏(ながうじ)・氏茂(うじしげ)などと伝えられるが確証はない。将軍家に仕え、今川氏の内紛を解決して1487駿河興国寺(こうこくじ)城主になり、1491or1493堀越公方(ほりごえくぼう)・足利茶々丸(ちゃちゃまる)を滅ぼして伊豆を攻略、1495?大森藤頼(おおもりふじより)から相模小田原(おだわら)城を奪い、1516三浦義同(みうらよしあつ)・義意(よしおき)父子を討って相模を統一、検地を行って貫高制を整備、分国法「早雲寺殿二十一箇条」を制定した。
侵攻味 三浦味

三浦按針(みうらあんじん)=三浦安針=ウイリアム・アダムズ(William Adams)
 
(1564-1620) イギリス人。1600オランダ貿易会社のリーフデ号に乗るが、豊後に漂着、徳川家康に外交顧問として仕え、朱印船貿易に従事、相模三浦に所領を与えられ、平戸のイギリス商館開設に尽力した。

三浦泰村(みうらやすむら)
 (1204?-1247) 武将。御家人。評定衆。義村の子。母は土肥遠平の娘。1221承久の乱で活躍し、1246五代執権となった北条時頼(ほうじょうときより)にも信頼されたが、宮騒動で弟・光村(みつむら)が加担していたこともあって対立し、1247安達景盛(あだちかげもり)の意を受けた安達泰盛(やすもり)に攻め滅ぼされた(宝治合戦)。

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