62.クジ味 基礎用語集

赤松満祐(あかまつみつすけ)
 (1373-1441) 武将。播磨・美作・備前守護。侍所所司(頭人。在職1411-1413,1428-1432,1436-1438,?-1440)。義則の子。1427父の死後に家督を継ぎ、1428正長の土一揆を平定するが、六代将軍・足利義教にうとまれ、1441子の教康らが義教を自宅に招いて殺害、一族で播磨に逃れて抗戦するが、山名持豊に坂本城と城山城を落とされて自害した(嘉吉の乱)。クジ味
暴君味 処理味

足利学校(あしかががっこう)
 中世に下野足利(しもつけあしかが。栃木県足利市)にあった学校。鎌倉時代に足利氏(足利義兼?)が一族の学校として創設し(平安時代に小野篁が創設説もある)、1439関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が円覚寺(えんかくじ)の僧・快元(かいげん)を庠主(しょうしゅ。校長)に招いて再興、儒学・易学を教授した。戦国時代に来日したザビエルは「坂東の大学」として西洋に紹介した。旧跡は国史跡。

足利成氏(あしかがしげうじ)←永寿王丸(えいじゅおうまる)
 (1438?-1497) 武将。五代鎌倉公方(在職1447or1449-1455)。初代古河公方(在職1455-1497)。持氏(もちうじ)の子。1438永享(えいきょう)の乱が起こると信濃へ逃れ、結城氏朝(ゆうきうじとも)に奉じられた兄の足利安王丸・春王丸とともに1440-1441結城合戦に参戦、捕らえられるが嘉吉の乱による六代将軍・足利義教(よしのり)の死で許され、1447or1449鎌倉公方に就任、1454関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を殺害して1455鎌倉を追われ、下総古河(しもうさこが)に移って幕府・上杉軍と交戦(古河公方の始まり)、1457八代将軍・足利義政(よしまさ)が派遣した堀越公方・足利政知(まさとも)とも戦った。

足利尊氏(あしかがたかうじ)←足利高氏(たかうじ)
 (1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後に鎌倉幕府を離反して後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武の親政(けんむのしんせい。建武の中興)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦で新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、後醍醐天皇率いる南朝と対立、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府し、1339弟・足利直義(ただよし)とともに夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう・かんおう)の擾乱(じょうらん)で執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義と交戦した。
暴走味

足利持氏(あしかがもちうじ)
 (1398-1439) 武将。四代鎌倉公方(在職1409-1439)。満兼(みつかね)の子。1409父の死で鎌倉公方を継ぎ、幕府の助力で1416-1417上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう。氏憲)の乱を平定、足利義持(よしもち)に反発と謝罪を繰り返し、1429クジで将軍となった足利義教(よしのり)と対立、1438離反した関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)を攻めて幕府軍に敗れ、1439憲実に攻められて自殺した。(永享の乱)
クジ味

足利基氏(あしかがもとうじ)
 (1340-1367) 武将。初代鎌倉公方(在職1349-1367)。尊氏(たかうじ)の子。義詮(よしあきら)の弟。1349叔父・直義(ただよし)の養子になり、初代鎌倉公方に就任、上杉憲顕(うえずのりあき)・高師冬(こうのもろふゆ)の補佐を受け、1350-1352観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で関東を流浪、1361義兄・畠山国清(はたけやまくにきよ)を討ち、関東平定に尽力するが早世した。

足利義教(あしかがよしのり)←足利義宣(あしかがよしのぶ)←義円(ぎえん)
 (1394-1441) 武将。室町幕府六代将軍(在職1429-1441)。義満(よしみつ)の子。義持(よしもち)の弟。初め青蓮院(しょうれんいん)で出家し、大僧正・准后(じゅごう)・天台座主になるが、1428クジで選ばれて1429将軍となり、専制政治を志向、諸将の相続に介入し、公家や宗教などの反対勢力を弾圧、1438-1439永享の乱(えいきょうのらん)で鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を、1440結城合戦(ゆうきかっせん)で結城氏朝(うじとも)・足利安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまる。ともに持氏の子)を滅ぼし、丹後等守護・一色義貫(いっしきよしつら)らを殺害したが、1441播磨等守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)に謀殺された(嘉吉の変・嘉吉の乱)。
クジ味 暴君味

足利義満(あしかがよしみつ)
 (1358-1408) 武将。室町幕府三代将軍(在職1368-1394)。義詮(よしあきら)の子。京都室町に花の御所を造営し、1379管領・細川頼之(ほそかわよりゆき)を斯波義将(しばよしまさ)と交代(康暦の政変)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を僧録(そうろく)に任じ、1382相国寺(しょうこくじ)を創建、五山十刹(ござんじっさつ)制を整備し、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)ら五山文学僧を重用、1390土岐(とき)氏の乱で土岐康行(やすゆき)を、1391明徳(めいとく)の乱で山名氏清(やまなうじきよ)を討ち、1392南朝の後亀山(ごかめやま)天皇を京都に迎えて南北朝合体を実現、1394息子・義持に将軍職を譲り、太政大臣に就任、北山に隠居し、金閣を建立、能の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子を重用するなど北山文化の担い手となり、1399応永(おうえい)の乱で大内義弘(おおうちよしひろ)を滅ぼし、1404明(みん)と勘合(かんごう)貿易を始めた。
戦争味平和味無念味

足利義持(あしかがよしもち)
 (1386-1428) 室町幕府四代将軍(在職1394-1423)。義満(よしみつ)の子。1394将軍となるが実権は父が握り、1408父没後に管領・斯波義将(しばよしまさ)を登用、父への尊号を辞退し、勘合貿易を廃止、1416-1417上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう。氏憲)の乱を平定し、1418弟・義嗣(よしつぐ)を殺害、1423子・義量(よしかず)に将軍を譲るが、1425義量の早世で再び執政した。
巣籠味 クジ味 暴君味

上杉憲実(うえすぎのりざね)
 (1410-1466) 武将。関東管領(在職1419-1439)。房方(ふさかた)の子。憲基(のりもと)の養子。1419鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)の下、関東管領となり、伊豆(いず)・上野(こうずけ)守護を兼任、鎌倉府と幕府との調停に尽力してきたが、1438持氏と決裂して幕府方に参陣、1439持氏を殺し、足利学校を再興した。
クジ味

永享の乱(えいきょうのらん)
 (1438-1439) 鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)と関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)及びこれを後援する室町幕府軍との戦い。六代将軍足利義教(よしのり)に不満を持つ持氏は1438挙兵、離反した憲実を攻めるが、上杉持房(もちふさ)率いる幕府軍に敗れ、三浦時高(みうらときたか)らの裏切りもあって降伏、出家するが1439憲実に攻められて自殺した。これによって鎌倉府は事実上滅亡し、以後は関東管領上杉氏が実権を握った。クジ味

大御所(おおごしょ)
 引退した将軍のこと。もとは親王や将軍の隠居所のこと。特に徳川家康(とくがわいえやす)・徳川家斉(いえなり)が有名。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉公方(かまくらくぼう)=鎌倉御所(かまくらごしょ)=関東御所=関東公方≦鎌倉殿
 室町幕府の東国統治機関・鎌倉府の長官。室町幕府関東支店長。足利尊氏(あしかがたかうじ)室町幕府創設の際、子・義詮(よしあきら)を鎌倉にとどめて鎌倉御所と呼んだのが起源。1349義詮上洛後は弟・基氏(もとうじ)が初代鎌倉公方となり、氏満(うじみつ)・満兼(みつかね)・基氏(もとうじ)・成氏(しげうじ)と世襲した。1438-1439永享(えいきょう)の乱後、鎌倉府は事実上滅亡し、実権は消滅した。1455成氏は関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)殺害の罪で追われ、下総古河(しもうさこが。茨城県古河市)に逃れた(古河公方)。クジ味

鎌倉府(かまくらふ)=関東府(かんとうふ)
 室町幕府の東国統治機関。室町幕府関東支店。関東八か国及び伊豆・甲斐を統治(氏満以降は陸奥・出羽も統治)。長官は鎌倉公方で、関東管領が補佐した。建武政権の鎌倉将軍府の後身。1349足利尊氏(たかうじ)の子・基氏(もとうじ)の鎌倉公方就任で成立。以後、氏満(うじみつ)・満兼(みつかね)・基氏(もとうじ)・成氏(しげうじ)と世襲するが、1438-1439永享(えいきょう)の乱後に事実上滅亡し、1455成氏が下総古河(しもうさこが。茨城県古河市)に逃れて消滅した。クジ味

関東管領(かんとうかんれい)
 鎌倉公方の補佐役。室町幕府関東支店長代理。1336足利義詮(あしかがよしあきら)鎌倉下向で斯波家長(しばいえなが)に補佐させたのが起源。初代関東管領は高師冬(こうのもろふゆ)と上杉憲顕(うえすぎのりあき)。上杉氏が世襲し、永享(えいきょう)の乱後は鎌倉公方の勢力をしのぐが、内部抗争や後北条氏の台頭で関東地方を追われた。最後の関東管領は上杉謙信(うえすぎけんしん)。

管領(かんれい)←執事(しつじ)
 
室町幕府の将軍補佐役。足利家執事&室町幕府政務長官。現代の副総理または官房長官のようなもの。足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事・高師直(こうのもろなお)が起源。後には三管領家(細川・斯波・畠山氏)から交替で選ばれた。

教王護国寺(きょうおうごこくじ)=東寺(とうじ)
 京都市南区所在。真言宗東寺派総本山。794平安京遷都の際に西寺(さいじ)とともに創建され、823嵯峨(さが)天皇が空海(くうかい)に下げ渡して真言宗の中心となった。五重塔・金堂・大師堂・蓮華門・僧形八幡神像・西院不動明王像・真言七祖像・両界曼荼羅・「風信帖」などは国宝。

侍所(さむらいどころ・さぶらいどころ)
 鎌倉幕府・室町幕府の官庁。鎌倉幕府のものは1180源頼朝が設置し、軍事・裁判を担当。現代の防衛省のようなもの。長官は別当(初代は和田義盛)、次官は所司(初代は梶原景時)。後に別当は北条氏が、所司は得宗(とくそう)家被官が世襲した。室町幕府のものは京都の警察や裁判を担当。現代の警視庁(地理的には京都府警)のようなもの。長官は所司(しょし。頭人とも)。管領に次ぐ重職で、山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)・土岐(とき)氏から交替で選ばれた。

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

四天王寺(してんのうじ)=天王寺
 大阪市天王寺区所在。和宗(わしゅう)総本山。587大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)が大連・物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼした後に聖徳太子(しょうとくたいし。厩戸皇子)が創建。金堂・塔・講堂・中門が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置。現在の建物は戦後に復元。

斯波氏(しばし)
 中世に栄えた氏族。室町幕府三管領の一。越前等守護家。氏祖は足利泰氏の子・家氏(いえうじ)。足利尊氏の倒幕に従い、義将(よしまさ・よしゆき)ら管領を輩出し、越前・尾張・遠江を領有するが、応仁の乱後に衰え、越前を朝倉氏に、尾張を織田氏に、遠江を今川氏に奪われた。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

守護請(しゅごうけ)
 室町時代に守護が荘園や公領の経営を任され、毎年一定の年貢徴集を請け負った制度。これにより荘園制が崩壊し、守護による領国経営が助長された。

相国寺(しょうこくじ)=万年山相国承天寺
 京都市上京区所在。臨済宗相国寺派大本山。京都五山第二位。1382夢窓疎石(むそうそせき)を開山(実際は春屋妙葩開山)として足利義満(あしかがよしみつ)が創建。塔頭(たっちゅう。支院)の鹿苑院(ろくおんいん)住持が僧録を兼任し、禅宗寺院を統括した。歴代住持の日記『鹿苑日録』は有名。

所司(しょし)=侍所所司(さむらいどころ・さぶらいどころしょし)=侍所頭人(とうにん)
 鎌倉幕府の侍所次官。長官の侍所別当を補佐した。室町幕府では侍所長官で管領に次ぐ重職。京都の警察や裁判を担当。現代の警視総監(地理的には京都府警本部長)のようなもの。山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)・土岐(とき)氏から交替で選ばれた。

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図
諾威味

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では象徴。
女帝味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

畠山氏(はたけやまし)
 桓武平氏(かんむへいし)の支流。重忠(はたけやましげただ)は源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えて有力御家人となるが、北条氏により滅亡、その後、足利氏の支流・義純(よしずみ)が名跡を継承し、足利尊氏の倒幕に従軍、室町幕府の三管領に列して基国(もとくに)・満家(みついえ)ら管領を排出し、越中・能登・河内・紀伊を領有するが、応仁の乱後衰退した。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

室町幕府(むろまちばくふ)=足利(あしかが)幕府
 (1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

山名持豊(やまなもちとよ)→山名宗全(そうぜん)
 (1404-1473) 武将。但馬等守護。侍所所司(頭人。在職1440-1441)。時煕(ときひろ)の子。1431兄・持煕(もちひろ)の失脚によって家督を継ぎ、1440侍所所司(さむらいどころしょし)に就任、1441嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)を討ち、播磨を加えて五か国を領有(一族で九か国)、1444赤松満政(みつまさ)を討ち、赤松氏再興や斯波(しば)・畠山(はたけやま)l)両氏の家督相続問題や将軍継嗣問題で管領・細川勝元(ほそかわかつもと)と対立、1467-1477応仁の乱に発展して西軍の主将となり、陣中で没した。クジ味
富豪味 暴君味 処理味

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