3.過激僧・日蓮 | ||||||||||||||
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安達泰盛と平頼綱の対立は、幕政をめぐる政治的な問題だけではなかった。
ある過激僧の処分をめぐる問題でも揉めていた。
過激僧とは、御存知日蓮である。
安房に生まれた日蓮は、十二歳で地元の天台宗寺院・清澄寺(千葉県鴨川市)に入り、十六歳のとき、
「わしは天下一になるんだっ!
天下一の智者だぞ!」
と、決心して出家、以後、鎌倉や比叡山などで修行した結果、法華経至上主義に目覚め、建長五年(1253)に法華宗を開宗、時の前執権・時頼に怪著『立正安国論』を提出し、内乱勃発と他国侵略を予言した。
日蓮は徹底的に他宗を排斥したことでも知られている。
念仏(浄土宗・浄土真宗・時宗)を、
「無間地獄!」
と、ののしり、禅宗(臨済宗・曹洞宗)を、
「天魔の所為!」
と、罵倒(ばとう)、律宗を、
「国賊!」
呼ばわりし、真言宗を、
「亡国!」
と、言ってのけた。
そのため日蓮は、禅宗を国教化していた鎌倉幕府や、その他宗徒から大いに嫌われた。
幕臣である頼綱は、当然、日蓮を嫌っていた。
また、頼綱の取り巻きには、禅宗徒はもちろん浄土宗徒も多かったようである。
「日蓮め、ぶっ殺す!」
文永八年(1271)、頼綱はとうとう日蓮を逮捕し、相模の竜口(たつのくち。神奈川県藤沢市)で処刑しようとした。
が、ここで待ったがかけられた。
かけたのは、泰盛である。
「殺してはならぬ」
頼綱は激高した。
「貴様は幕府にありながら、日蓮の味方をするのか!」
「そうではない。得宗家に新しい命が生まれるときに、仮にも坊主を斬(き)るのはよろしくない。流刑にしておけ」
このとき、得宗・時宗の妻は妊娠していた。後の九代執権貞時(さだとき)を宿していたのである。
ちなみに時宗の妻は、後に東慶寺(とうけいじ。神奈川県鎌倉市)を開く覚山尼(かくざんに)。泰盛の妹(または娘)である。
「む、む、む……」
得宗家のためとあっては、頼綱もあきらめるしかなかった。
日蓮の処刑は中止され、佐渡に流刑と決まったのである。
命永らえた日蓮は、流刑中も赦免後も布教活動を続け、晩年に甲斐に久遠寺を開いている。
頼綱はおもしろくなかった。
日蓮を斬(き)れなかったことよりも、泰盛に口出しされたことが我慢ならなかった。
「クソッ! 執権ですら、オレにあーだこーだ言わないのに、なんだあのオヤジは! 日蓮よりも、アイツのほうをぶっ殺したいわ!」
でも、それを当の泰盛の前では言えなかった。言えるはずがなかった。
「殺せるもんなら、殺してみろ!
かかってこい、オラッ!」
日々、書類に目を通している事務職の御内人が、日々、騎射三物(きしゃみつもの。笠懸・犬追物・流鏑馬)などで体を鍛えている体育会系の御家人に、サシのケンカで勝てる自信はなかった。
頼綱は、寄合で同席せざるを得ない色黒筋骨隆々オヤジを、横目でうとましく見て思った。
(ふん。体力がなくってって、こっちには知恵があるんだ。見ていろよ。そのうちにお前なんか、肉ダンゴにしてくれるわっ!)