18.将軍味 基礎用語集

吾妻鏡=東鑑(あずまかがみ)
 鎌倉時代の正史。編者不明。52巻?。編年体。1180源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵から1266宗尊(むねたか)親王送還までを記した歴史書。金沢文庫(かねざわぶんこ)に伝わる鎌倉時代の記録を基に十四世紀初めに成立したと思われる。

院政(いんせい)
 上皇(譲位した天皇)や法皇(出家した天皇)が実質的に国政を行う形態。1086白河(しらかわ)上皇が初めて行い、1840光格(こうかく)上皇が没するまで断続的に行われたが、承久(じょうきゅう)の乱以降の院政は形式的である。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

蝦夷(えぞ・えみし)
 古代、主に東日本に住んでいた人々。大和朝廷の征伐を受け、次第に北方に追いやられた。アイヌかどうかについては諸説ある。

江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

大江広元(おおえのひろもと)
 (1148-1225) 公家・学者・官僚。政所別当。維光(これみつ)の子(または藤原光能の子)。中原広季(なかはらひろすえ)の養子。匡房(まさふさ)の曽孫。源頼朝(みなもとのよりとも)に請われて鎌倉に下り、初代公文所(くもんじょ。後の政所)別当に就任、地頭設置を建議するなど幕閣で重きをなし、頼朝没後は北条時政(ほうじょうときまさ)・義時(よしとき)らとともに十三人の合議制にも列席、1221承久(じょうきゅう)の乱では守戦論を退け、京都攻略を主張、幕府を勝利に導いた。

大王(おおきみ)
 大和政権の首長。皇族の代表。天武(てんむ)天皇の頃から天皇と呼ばれるようになった。

園城寺(おんじょうじ)=三井寺(みいでら)
 滋賀県大津市所在。天台宗寺門派(てんだいしゅうじもんは。天台寺門宗)の総本山。山号長等山(ながらさん)。大友皇子(おおとものおうじ)の子・与多王(よたおう)の創建と伝え、859円珍(えんちん)が再興、山門派(さんもんは)の延暦寺(えんりゃくじ)と天台宗の正統を争った。国宝不動明王像(黄不動)など、多くの寺宝が伝わる。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝がここを本拠に幕府を開き、政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)が住み、東国支配の中心となった。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1192-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。 

金塊和歌集(きんかいわかしゅう)
 鎌倉時代の歌集。鎌倉右大臣歌集とも。源実朝(みなもとのさねとも)作。六六三首(または七一九首)。「金塊」とは、「鎌倉大臣」という意味。万葉調の歌が少なくない。

愚管抄(ぐかんしょう)
 鎌倉時代の歴史書。日本最初の史論。7巻。慈円(じえん)著。承久の乱前後に成立。神武天皇〜順徳天皇までを収録。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

公暁(くぎょう)
 (1200-1219) 僧侶。鶴岡八幡宮別当(つるがおかはたまんぐうべっとう)。源頼家(みなもとのよりいえ)の子。1219叔父・源実朝を父の仇(かたき)と信じ、鶴岡八幡宮で殺害するが、北条義時(ほうじょうよしとき)の意を受けた三浦義村(みうらよしむら)によって殺された。
 将軍味

古事記(こじき)
 現存日本最古の歴史書。3巻。紀伝体。天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた昔話を太安万侶(おおのやすまろ)が編集。神代〜推古朝までを収録。

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)←後鳥羽天皇←尊成親王(たかなりしんのう・たかひらしんのう)
 (1180-1239) 伝八十二代天皇(在位1183-1198。院政1198-1221)。高倉(たかくら)天皇の皇子。 1183平氏の都落ち後に即位し、1198土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を開始、1201和歌所(わかどころ)を設置して藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)・藤原家隆(かりゅう・いえたか)らに『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集させ、自身でも有職故実(ゆうそくこじつ)書『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』などを著述、実力者・源通親(みなもとのみちちか)没後は朝廷の実権を掌握し、西面(さいめん)の武士を設置して幕府と対立、1221三代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して幕府打倒を目指したが、返り討ちにあって隠岐へ島流しにされた(承久の乱)。
将軍味4 栄光味

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。

参議(さんぎ)
 太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの

四鏡(しきょう)
 鏡の名を持つ歴史物語の総称。以下四つ。

書名 成立年代 巻数 著 者 収録範囲
 大 鏡  平安後期 平安中期(文徳〜後一条)
 今 鏡  平安末期 10 平安後期(後一条〜高倉)
 水 鏡  鎌倉初期 3 中山忠親? 大和〜平安前期(神武〜仁明)
 増 鏡  南北朝時代 17 二条良基? 鎌倉時代(後鳥羽〜後醍醐)

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。もとは院政における院司の長官のこと。

地頭(じとう)
 平安末〜鎌倉時代に荘園や公領を直接支配した者。平氏政権でもあったが、1185源頼朝(みなもとのよりとも)が守護とともに制度化し、田畑一段につき五升の兵粮米(ひょうろうまい)の徴収が認められた。承久(じょうきゅう)の乱前に任じられたものを本補(ほんぽ)地頭、乱後に任じられたものを新補(しんぽ)地頭という。南北朝の動乱後、本来の地頭の意味はなくなったが、江戸時代には知行取りの旗本や租税徴収係を地頭と呼んだ。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、近現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代に下克上により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

荘園(しょうえん)
 貴族や寺社の私有地。自力で開墾したもの(自墾地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。

承久の乱(じょうきゅうのらん)・承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための朝廷の軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が就任して幕府を開いてからは世襲となった。将軍味

清和源氏(せいわげんじ)
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族。平安後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)氏・新田(にった)氏などもこの家系。

(そう)
 (960-1279) 中世中国の王朝。趙匡胤(ちょうきょういん)が創始。首都は北宋は開封(かいほう)、南宋は臨安(りんあん。杭州)。北宋は1127金(きん)に、南宋は1279元(げん)に滅ぼされた。平氏政権や鎌倉幕府は南宋と日宋貿易を展開した。

束帯(そくたい)
 平安中期以後の公卿の礼服・参朝服。「帯で腰を束ねる」という意味。冠・袍(ほう)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口・石帯(せきたい)・靴(かのくつ)笏(しゃく)などからなる。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)←一橋(ひとつばし)慶喜
 (1837-1913) 江戸幕府十五代将軍(在職1866-1867)。常陸水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子。1847一橋(ひとつばし)家を継ぎ、十三代将軍・徳川家定(いえさだ)の将軍継嗣問題では、松平慶永(まつだいらよしなが)・島津斉彬(しまづなりあきら)ら一橋派に推されたが、井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀(なんき)派が推す徳川慶福(よしとみ。後の家茂)に敗れ、1858日米修好通商条約調印に反発して処罰されたが(安政の大獄)、1862孝明(こうめい)天皇の勅命で始まった文久(ぶんきゅう)の改革では将軍後見職に就任、1866将軍となって慶応(けいおう)の改革を断行、フランスに接近して軍備増強を図るが挫折(ざせつ)、1867大政奉還を行って朝廷に政権を返上し、1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて朝廷に恭順、1868明治維新後は静岡で隠居した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)
 (1162-1241) 歌人。公卿。京極中納言。俊成(しゅうぜい・としなり)の子。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に認められ、1205藤原家隆(いえたか)らとともに勅撰和歌集『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集rするが謹慎処分を受け、1221承久(じょうきゅう)の乱後の1235後堀河(ごほりかわ)天皇の命令で『新勅撰和歌集』を編集した。小倉百人一首を選び、歌集『拾遺愚草(しゅういぐそう)』・歌論『近代秀歌』・日記『明月記(めいげつき)』などを残した。

藤原頼経(ふじわらのよりつね)=九条(くじょう)頼経
 (1218-1256) 公卿。鎌倉幕府四代将軍(在職1226-1244)。九条道家(みちいえ)の子。1219源実朝(みなもとのさねとも)横死後、北条氏によって鎌倉へ迎えられ、1226将軍に就任(摂家将軍)、当初は傀儡(かいらい)だったが、成長するにつれ権力を望み始めたため、1244北条経時(つねとき)によって将軍を廃され、1246謀反に関係したとして北条時頼(ときより)によって京都に送還された。

北条時政(ほうじょうときまさ)
 (1138-1215) 武将。鎌倉幕府初代執権(在職1203-1205)。伊豆の豪族・時方(ときかた)の子。政子(まさこ)・義時(よしとき)らの父。1180娘婿・源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に参加し、1185平氏滅亡後は京都守護に就任、1189奥州征伐に従い、頼朝が没して頼家(よりいえ)が将軍になると、十三人の合議制に列席、1203比企能員(ひきよしかず)を討ち、頼家(よりいえ)を追放(翌年殺害か)、実朝(さねとも)を将軍にして政所(まんどころ)別当となり、1205畠山重忠(はたけやましげただ)を殺すが、後妻の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようとしたため、政子・義時らに追放された。
排除味

北条政子(ほうじょうまさこ)
 (1157-1225) 尼(あま)将軍。二位尼。源頼朝(みなもとのよりとも)の妻。北条時政(ほうじょうときまさ)の娘。北条義時(よしとき)らの姉。源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)らの母。頼朝死後、父や弟とともに幕政を主導、1203将軍頼家を廃して比企能員(ひきよしかず)を討ち、実朝を擁立してこれを補佐、1205父を追放し、1219実朝横死後は都から摂家将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を招聘(しょうへい)し、1221承久(じょうきゅう)の乱では御家人たちを鼓舞して幕府に勝利をもたらせた。栄光味

北条泰時(ほうじょうやすとき)
 (1183-1242) 武将。鎌倉幕府三代執権(在職1224-1242)。義時(よしとき)の子。1221承久(じょうきゅう)の乱で叔父・北条時房(ときふさ)とともに京都へ進軍し、初代六波羅探題(ろくはらたんだい)北方に就任、1224父の死により執権を継ぎ、1225時房を連署(れんしょ。執権同格)に任命、評定衆(ひょうじょうしゅう。最高議決機関)を設置し、1232御成敗式目(ごせいばいしきもく。幕府基本法典。貞永式目とも)を制定、鎌倉市街を整備した。
善政味 栄光味

北条義時(ほうじょうよしとき)
 (1163-1224) 武将。鎌倉幕府二代執権(在職1213-1224)。時政(ときまさ)の子。父とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従軍、1205姉の政子(まさこ)とともに父を追放して政所(まんどころ)別当に就任、1213和田合戦(わだかっせん。和田氏の乱)で和田義盛(よしもり)を滅ぼし、侍所(さむらいどころ)別当を兼ねて執権政治を確立、1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、摂家(藤原)将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎え、1221承久(じょうきゅう)の乱に勝って後鳥羽(ごとば)上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇を配流、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、多数の荘園を没収して新補地頭(しんぽじとう)を任命、朝廷監視のため六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。将軍味
栄光味

政所(まんどころ)
 公卿の家政機関または幕府の政務機関。四位以下の公家の家政機関は公文所(くもんじょ)という。1190源頼朝(みなもとのよりとも)が権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)任官を機に公文所を政所と改称した。初代別当は大江広元(おおえのひろもと)。1203北条時政(ほうじょうときまさ)が別当になってからは執権(しっけん)と呼ぶのが普通で、北条氏が世襲した。また、次官の執事は主に二階堂(にかいどう)から任じられた。室町幕府の政所は財政事務を担当、長官は執事で伊勢(いせ)氏が世襲、執事の代官である政所代は蜷川(にながわ)氏が世襲した。

源実朝(みなもとのさねとも)
 (1192-1219) 武将・公卿。鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)での右大臣就任祝いの後、兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。
将軍味

源頼家(みなもとのよりいえ)
 (1182-1204) 武将。鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。実朝(さねとも)の兄。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され(比企能員の乱)、1204時政に殺されたという。

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦いで大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦いで平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

源頼政(みなもとのよりまさ)
 (1104-1180) 武将・公卿・歌人。源頼光(よりみつ)の子孫。仲政(なかまさ)の子。早くから白河(しらかわ)・鳥羽(とば)上皇(法皇)に仕え、1156保元(ほうげん)の乱で源義朝(よしとも)らと後白河(ごしらかわ)天皇について勝利、1159平治(へいじ)の乱も平清盛(たいらのきよもり)に味方し、勝って公卿に列したが、1180以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒を画策、露見して宇治で敗死した。
 暴走味1

源頼義(みなもとのよりよし)
 (988-1075) 武将。頼信(よりのぶ)の子。義家(よしいえ)の父。1031父とともに平忠常(たいらのただつね)の乱を平定し、武蔵守等を務めて東国に勢力を拡大、1053鎮守(ちんじゅ)将軍となり、1051-1062前九年(ぜんくねん)の役で安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)を破って伊予守になり、1063鎌倉に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請、鶴岡(つるがおか)八幡宮を創建して源氏の氏神とした。
降伏味

和田義盛(わだよしもり)
 (1147-1213) 武将。侍所(さむらいどころ)別当。杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。三浦義明(みうらよしあき)の孫。1180同族の三浦義澄(よしずみ)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従い、初代侍所別当に就任、頼朝(みなもとのよりとも)死後は十三人の合議制に列し、1200梶原景時(かじわらのかげとき)・1203比企能員(ひきよしかず)討伐に参加、幕府内で力を持ったが、政所(まんどころ)別当・北条義時(ほうじょうよしとき)と対立、挑発に乗って和田合戦(和田氏の乱)を起こして敗死した。排除味
挑発味

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