◆ 天平九年(737)の場合

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炭そ菌より恐ろしい天然痘の恐怖
★ 天平九年(737)の場合
★ 長徳元年(995)の場合

天平九年は奈良時代である。奈良時代において現在の内閣に当たるものは太政官の上層部である(「古代官制」参照)
 太政官の最高官は左大臣で、右大臣がこれに次ぐ。いわばこの二人は、現在でいう首相と副相である。
 この二人に次ぐのが、大納言・中納言・参議であり、ここまでが現在は大臣と呼ばれている閣僚に当たる
(ちなみに当時はまだ、摂政太政大臣は常置ではなく、聖徳太子大友皇子といった有力な皇位継承者だけが特例として任命されていた)

● 藤原四子政権閣僚 ●
(737当時)
官 職 官 位 氏 名 年齢
右大臣 正二位 藤原武智麻呂 58歳
中納言 正三位 多治比県守 70歳
参 議 正三位 藤原房前 57歳
参 議 正三位 藤原宇合 44歳
参 議 従三位 藤原麻呂 43歳
参 議 従三位 鈴鹿王 ?歳
参 議 従二位 橘 諸兄 54歳
参 議 従二位 大伴道足 ?歳

左に当時の閣僚たちを紹介する。

 このとおり、当時の閣僚は八人である。これを見ると、上位五人のうち四人までもが藤原氏であることがお分かりであろう。しかもこの四人、みな兄弟である。四兄弟の祖父は、大化の改新天智天皇に賭(か)けて成功した勝負師・藤原鎌足であり、父は「大宝律令」・「養老律令」を編集し、政界での藤原氏の地位を不動のものとした敏腕政治家・藤原不比等である。
 自然、三代目たる彼らは、生まれながらの権力者であった。しかも彼らは無能ではなかった。

 長男・武智麻呂(むちまろ)は病弱だが博学、次男・房前(ふささき)は寡黙でやり手、三男・宇合(うまかい)は情にもろい武人、四男・麻呂(まろ)は人の良い芸術家という性格の違いはあれど、それぞれの長所を生かし、短所は他者がカバーし、四兄弟そろって政治を牛耳っていたのである。
 しかも、彼らの異母妹・光明子は、時の帝・聖武天皇の皇后になっていた。当時の天皇は国王である。彼らは国王の義兄というわけだ。そんな彼らにとっては、権力を握ることよりも手放すことのほうがむつかしいといってよかった。

そんな彼らにも、かつては「抵抗勢力」がいた。
 天武天皇の孫で、皇族のプリンスとして左大臣を務めた長屋王である。
 長屋王は光明子の立后を、
「前例がない」
 として断固反対したが、結局、四兄弟によって謀反人のぬれ衣を着せられ、自殺に追い込まれてしまった。世にいう「長屋王の変」である。時に神亀六年(729)。
 以後、十年余り、四兄弟は政界の頂点に君臨し続けていた。何事も起きなければ、もっと早く藤原氏による摂関政治体制が築かれていたであろう。しかし天は、それを許さなかった。

天然痘は西からやって来た。はじめ九州で流行し、夏には平城京でも猛威を振るい始めた。
 四月十七日、まず、次男房前が死んだ。房前は後に藤原道長頼通らを輩出する北家
(ほっけ)の祖である。
「房前が?」
 長男武智麻呂は耳を疑ったであろう。病弱な自分より先に、弟の房前が死ぬはずがないと思っていたに違いない。政府は各地の寺社に疫病退散の祈願をさせた。無実の罪で監獄にぶち込まれていた冤罪者
(えんざいしゃ)を調べ上げて釈放してみた。
 しかし、疫病は治まるどころかはびこる一方であった。役人の多くが発病したため、政務を停止せざるをえなくなった。

六月二十三日、政界の長老・多治比県守(たじひのあがたもり)が亡くなった。
 高齢だけに抵抗力が弱かったのであろう。この時点で政界のナンバーツーとナンバースリーが亡くなったことになる。

七月十三日、四男麻呂も死んだ。
 四兄弟中もっとも穏健だった彼の死は、多くの人々を悲しませたという。
 ちなみに彼の愛人の一人に、大伴家持の叔母で万葉歌人として知られる大伴坂上郎女
(さかのうえのいらつめ)がいる(「改元味」参照)

まもなく、政界首班の長男武智麻呂も発病した。兄弟だけに、弟たちの見舞いに訪れた際に感染してしまったのだろう。聖武天皇は驚き、彼に正一位の極位を与え、左大臣に任じたが、武智麻呂はそれに満足したかのように、その日のうちに死んでしまった。七月二十五日のことである。

「兄たちも弟も死んでしまった……」
 最後に残った三男宇合の胸中はいかばかりであったろう?
「次はおれの番か……」
 言い知れぬ恐怖におびえていたに違いない。
長屋王のたたりではないか……
(「令和味」参照)
 そうも思っていたかもしれない。
 そんな彼にも死はやって来た。八月五日のことである。

 このほかにも、この年の冬までに、大宅大国(おおやけのおおくに)・小野老(おののおゆ)・長田王(ながたおう)・大野王(おおのおう)・百済王郎虞(くだらのこにきしろうぐ)・橘佐為(たちばなのさい)・水主内親王(みぬしないしんのう)などといった貴人が次々と死んでいる。

 四枚重ねで鉄壁を誇っていたかに思えた藤原四兄弟政権は、こうしていとも簡単に崩れ去った。
 わずか数ヶ月のうちに先に示した八人の閣僚中、五人までが死んでしまったのである。
 しかも、ねらいすましたようにナンバーワンからナンバーファイブまで。残った三人は毒にも薬にもならない連中ばかりである。橘諸兄は凡庸、大伴道足は御老体、鈴鹿王は長屋王の弟だが、兄とは似ても似つかぬおとなしいひかえめな人物である。これでは政権が機能するはずなかった。

「これからどうすればいいのかしら……」
 四人の兄をいっぺんに失ってしまった光明子は途方にくれた。
「まだ、私がいるじゃないか」
 そう言ってくれる聖武天皇は自分と同い年で病弱で頼りない。それに比べて死んだ兄たちは本当に頼りがいがあった。兄たちは邪魔者をぶっ殺してまで、自分を皇后にしてくれた。確かに夫はいい人である。でも、いい人には政治は執れない……。

 光明子は信仰に身を投じた。仏教に走ったのである。
 しかし、崩壊した政府をこのままにしていくわけにはいかない。
「元気出せよ。もう病気は治まったようだ。道端に転がっている死体もめっきり少なくなって、つまずいて転ぶこともなくなったぞ。おれたちは助かったんだ。生きているんだぞ」
 そう言ってくれたのは、光明子の異母兄・橘諸兄だった。実は光明子の母・県犬養橘三千代
(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)は、始め美努王(みぬおう)に嫁いで橘諸兄・佐為兄弟をもうけ、その後で藤原不比等に嫁いで光明子をもうけているのである。したがって彼女には、異母兄弟が四人と異父兄弟が二人いたわけである。
「兄さん……」
 光明子はしみじみと兄を見つめた。
 凡庸で頼りなかったはずのこの兄が、がぜん光明子の目の前で輝き始めた。六本の電灯のうち、五本までもが切れてしまったため、最後の一本がものすごく明るく感じたのであろう。
 そして光明子は思った。
「そうだ。この兄に任せてみよう。ほかに誰もいないんだから。とりあえず――」

 九月十三日、参議だった橘諸兄大納言に昇り、翌年には右大臣に、六年後には左大臣に昇って政権を担当した。「とりあえず」のはずだった諸兄政権は、どういうわけか二十年間も続いたのである(「辞任味」参照)

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