5.新左衛門はなぜ狂歌がうまいか?

ホーム>バックナンバー2007>5.新左衛門はなぜ狂歌がうまいか?    

芸人恐るべし〜曽呂利新左衛門は実在したか?
1.新左衛門はいつ登場したか?
2.豊臣秀吉はサルそっくりか?
3.瓢箪からホントに駒は出るか?
4.黒駒騒動をどう収めたか?
5.新左衛門はなぜ狂歌がうまいか?
6.世界で一番大きな歌とは?
7.新左衛門はいつ没したか?

 天正十五年(1587)三月、豊臣秀吉は九州の島津義久を討つため大坂を出陣、五月に義久を降伏させ、七月に大坂に凱旋(がいせん)した(九州平定)
「これであとは関東と東北を残すのみじゃ」
 安心したのか、秀吉は風邪を引いた。
「何、たいしたことはない」
 初めはそう言っていたが、熱も高くなって寝込んでしまった。

 そんな折、秀吉が大事にしていた盆栽の松が枯れてしまった。
 加藤清正、福島正則ら近習らは心配した。
「どうしたことだ?」
「昨日までは青々しておったのに……」
「何か悪いことがある前兆では?」
「まさか殿下が……」
「ひえー」
 おろおろする近習たちを曽呂利新左衛門が笑い飛ばした。
「大丈夫ですって」
 で、こんな歌を詠んだ。

  御秘蔵の常盤(ときわ)の松は枯れにけり
   千代
(ちよ)の齢(よわい)を君に譲りて

「おお、松が殿下の身代わりになってくれたと申すのか」
「なるほど。ものは考えようだな」

 しばらくして秀吉は完治した。
 清正らがうわさしたため、新左衛門の名声は高まった。
「それにしても曽呂利は歌の名手よ」
「ヤツの歌はただ人を笑わすだけではない。沈んだ気持ちをパーッと明るくしてくれる」

 うわさを聞いた人がいた。
 内大臣・織田信雄
(おだのぶお・のぶかつ。北畠信雄。常真)――。
 かの織田信長の次男である。
「ほう、曽呂利とやらはそんなに歌がうまいのか」
 信雄は新左衛門を呼びつけた。
「へえ。なんでございましょう?」
「頼みがある。余に歌を教えてくれぬか?」 
「人に教授するような腕はございませんが」
「いや。『常盤の松』の歌など絶品ではないか。そちが秀吉に仕えたきっかけも狂歌だと聞いた。どうしてそのように名歌をポンポン作ることができるのだ?何か秘密があるのであろう?」
 新左衛門は頭をかいた。
「確かに秘密がございます」
「やはりか」
「実は私の腹の中には『歌袋』というものがございまして、そいつが勝手に歌を作っているのでございます」
「ほう」
「それがその歌袋、昼夜区別なく勝手に歌を作りたがるので困っているのでございます。おかげで夜もぐっすり眠ることができません」
「そうか。困っているのなら、それを余にくれぬか?」
「結構です。よろこんで差し上げましょう」
「そうか。では、いただこう」
 信雄は刀を抜いた。
 新左衛門はあわてた。
「ああ! そんな物騒なものは必要ありません! 私の歌袋は取り外し自在でございます!」
「失敬。で、いくらで譲ってくれるのか?」
「百両で」
「そうか。それで歌がうまくなるなら高くはない」
 さすが信雄、即金で支払う。
 新左衛門は喜んで受け取って席を立った。
「では、ちょっとはずしてまいりますので」

 少しして、新左衛門は箱に何かを入れて戻ってきた。
「これが歌袋でございます」
「そうか」
 信雄はうれしそうに箱を開けた。
 中に短冊があり、歌があった。

  春ごとに咲き乱れたる梅桜
   木を割りて見よ花のありかを

 信雄は感心した。
「なるほど。いくら梅や桜が美しく咲こうとも、幹に花が入っているわけではないということか……」
 信雄は満足げであった。
「そなたはカネに代えがたい大切なことを教えてくれたのう。フッフッフ。これで余も少しは歌がうまくなるやも知れぬ」

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system