65.芸人味 基礎用語集

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安土桃山時代(あづち・あずちももやまじだい)=織豊(しょくほう)時代
 (1568or1573-1598) 安土城を築いた織田信長と桃山城(伏見城)を築いた豊臣秀吉が支配していた時代。1568織田信長入京or1573室町幕府滅亡に始まり、全国的な軍事統合が進み、桃山文化が栄えるが、1598豊臣秀吉の死で終焉した。

乙巳の変(いつしのへん)
 645中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり。藤原鎌足)が蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を討った事件。中大兄皇子と鎌足は蘇我石川麻呂(いしかわまろ)らを味方につけ、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿を暗殺、蝦夷を攻めてこれを自殺させた。ここに蘇我本宗家は滅亡し、大化の改新なる一連の政治改革が行われたという。⇒大化の改新

上杉景勝(うえすぎかげかつ)
 (1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を破って家督となるが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。

上杉謙信(うえすぎけんしん)←上杉政虎(まさとら)←上杉輝虎(てるとら)長尾景虎(ながおかげとら)
 (1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄と数度交戦(川中島の戦)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長を攻めるが、1578急死した。
撤退味 地震味2

江戸時代(えどじだい)=徳川(とくがわ)時代
 (1600or1603-1867) 江戸幕府が支配していた時代。1600関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす)が政権を握ったこと、または1603家康が江戸幕府を開いたことに始まり、徳川氏が代々将軍に就任した。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還して終わった。

大坂(おおさか・おおざか)→大阪
 現在の大阪府大阪市。府庁所在地。戦国時代に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心に栄え、1583豊臣秀吉が大坂城を築いて発展、江戸時代には日本経済の中心として「天下の台所」と呼ばれ、明治維新後に大阪と改めた。

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味

加藤清正(かとうきよまさ)
 (1562-1611) 武将。大名。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で活躍(七本槍の一人)、1588肥後熊本を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役・1597-1598慶長(けいちょう)の役で奮戦、1600関ヶ原の戦では東軍に属し、熊本城を新築、大阪城などの築城にも携わった。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

九州攻め(きゅうしゅうぜめ)=九州征伐→九州平定
 全国統一を目指す豊臣秀吉と九州統一を目指す島津義久(しまづよしひさ)との戦争。1578耳川(みみかわ)の戦で義久に大敗した大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に救援を依頼、秀吉は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・仙石久秀(せんごくひさひで)らを遣わしたが、1586戸次川(へつぎがわ)の戦で敗れた。1587秀吉は出陣し、自らは肥後路を、弟の豊臣秀長(ひでなが)は日向路と別れて進撃、日向高城(たかじょう)救援に失敗して戦意を喪失した義久は降伏した。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

小牧・長久手の戦(こまきながくてのたたかい)
 1584豊臣秀吉と徳川家康が小牧(愛知県小牧市)・長久手(愛知県長久手町)で戦った戦。賤ヶ岳の戦の後、織田信雄(おだのぶかつ・のぶお。信長の次男)が秀吉と対立、家康と結んで挙兵した。家康は尾張犬山城(愛知県犬山市)に入った秀吉と対陣、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・本願寺の顕如(けんにょ)・紀伊の根来(ねごろ)衆・北陸の佐々成政(さっさ・ささなりまさ)とも結んで秀吉の背後をけん制させた。秀吉は家康の本拠三河を攻めさせたが、途中の長久手で敗れたため、信雄の本拠伊勢を攻撃、信雄と単独講和にこぎつけたため、家康も撤退した。

(さかい)
 現在の大阪府堺市。大阪湾に面した港町で、室町時代から勘合貿易や南蛮貿易で繁栄。三十六人の門閥豪商からなる会合衆(えごうしゅう)が町政を執った。織田信長に多額の矢銭(軍資金)を要求されて抵抗したが、結局屈服した。江戸時代は幕府領。

四国攻め(しこくぜめ)=四国征伐→四国平定
 全国統一を目指す豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか。長曽我部元親)との戦争。1585四国をほぼ平定した元親は秀吉の国分けに反発、秀吉は弟・秀長(ひでなが)を阿波から、宇喜多秀家(うきたひでいえ)を讃岐から、小早川隆景(こばやかわたかかげ)を伊予から攻撃させ、これを降伏させた。

島津義久(しまづよしひさ)←島津義辰(よしたつ)←島津忠良(ただよし)
 (1533-1611) 武将。大名。貴久(たかひさ)の子。1566薩摩守護を継ぎ、薩摩を統一、1574大隅を、1578日向を制圧し、肥後・肥前を攻撃するが、豊臣秀吉の国分けに反発して筑前・豊後へ侵攻、豊後の大友義統(おおともよしむね)を追って九州を席巻するが、1587豊臣秀吉に九州攻めに降伏した。⇒九州平定

千利休(せんのりきゅう)←千宗易(せんのそうえき)
 (1522-1591) 茶人・豪商。茶道(千家流)の祖。境の納屋衆・田中与兵衛の子。北向道陳(きたむきどうちん)や武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、茶の湯を大成、織田信長や豊臣秀吉に仕え、正親町(おおぎまち)天皇に献茶して「利休居士号」を許され、多くの貴族や武将たちを弟子とし、政界にも大きな発言力を持ったが、1591秀吉の不興を買って切腹した。
相場味 変化味 芸人味

蘇我入鹿(そがのいるか)蘇我鞍作(そがのくらつくり)
 (?-645) 大臣(おおおみ)。蝦夷の子。643蝦夷より大臣を譲られ、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼして権勢を誇ったが、645中大兄皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて殺害された。⇒乙巳の変

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
撤退味 大雪味3 惨敗味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味 花見味 変節味

長束正家(なつかまさいえ)
 (?-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、財政や検地に活躍、1600関ヶ原の戦いでは石田三成に属し、敗れて自殺した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

北条氏(ほうじょうし)
 @鎌倉(かまくら)北条氏。古代〜中世の武家。氏祖は北条時方(ときかた)。その子・時政(ときまさ)が源頼朝(みなもとのよりとも)の舅(しゅうと)として初代執権となり、代々世襲して繁栄するが、1333元弘の乱で敗れて滅亡した。
 A小田原(おだわら)北条氏。後北条氏とも。中世の武家。氏祖は北条早雲(そううん。伊勢長氏)。今川家の内紛で独立し、伊豆・相模を平定、小田原を本拠とし、五代に渡って関東に覇をなしたが、1590豊臣秀吉によって滅ぼされた。⇒北条氏後北条氏系図

前田利家(まえだとしいえ)
 (1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児秀頼の後見役を務めた。 

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