85.秘密味 基礎用語集

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足利尊氏(あしかがたかうじ)←足利高氏(たかうじ)
 (1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後に鎌倉幕府を離反して後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武の親政(けんむのしんせい。建武の中興)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦で新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、後醍醐天皇率いる南朝と対立、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府し、1339弟・足利直義(ただよし)とともに夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう・かんおう)の擾乱(じょうらん)で執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義と交戦した。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置頃に始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所を・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ幕府は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、末期には内管領・長崎氏が勢力を拡大、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡し、幕府は解体した。 

桓武平氏(かんむへいし)=平家(へいけ)≦平氏
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

蔵人頭(くろうどのとう)
 蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。詐欺味1

皇太子(こうたいし)=東宮・春宮(とうぐう)
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

国司(こくし)
 古代に諸国の政務をつかさどった地方官。現在でいう都道府県庁高官に相当。長官(守・かみ)・次官(介・すけ)・判官(掾・じょう)・主典(目・さかん)という四等官(しとうかん。幹部のこと)が朝廷から派遣され、国衙(こくが。国庁とも。役所のこと)に勤務し、郡司(ぐんじ)・里長(りちょう・さとおさ)らを支配した。天武天皇の頃に成立し、鎌倉時代に守護・地頭勢力に押されて衰退した。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)=後鳥羽院(ごとばいん)←後鳥羽天皇←尊成親王(たかなりしんのう・たかひらしんのう)
 (1180-1239) 伝八十二代天皇(在位1183-1198。院政1198-1221)。高倉(たかくら)天皇の皇子。 1183平氏の都落ち後に即位し、1198土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を開始、1201和歌所(わかどころ)を設置して藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)・藤原家隆(かりゅう・いえたか)らに『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集させ、自身でも有職故実(ゆうそくこじつ)書『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』などを著述、実力者・源通親(みなもとのみちちか)没後は朝廷の実権を掌握し、西面(さいめん)の武士を設置して幕府と対立、1221三代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して幕府打倒を目指したが、返り討ちにあって隠岐へ島流しにされた(承久の乱)。
将軍味4 栄光味

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)=源平の争乱(げんぺいのそうらん)
 (1180-1185) 平安時代末期に起こった一連の源氏と平氏の戦い。後白河(ごしらかわ)天皇皇子・以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵に始まり、源頼朝(よりとも)の挙兵、源義仲(よしなか)の征西と続き、源義経らによる一の谷の戦・屋島の戦を経て、壇ノ浦の戦で平氏が滅んで終結した。
ウシ味

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。もとは院政における院司の長官のこと。初代執権は北条時政(ほうじょうときまさ)。最期の執権は北条守時(ほうじょうもりとき。赤橋守時)。

持明院統(じみょういんとう)
 プレ北朝。後深草(ごふかくさ)天皇の皇統。持明院を院御所とした。鎌倉時代から大覚寺(だいかくじ)統と対立し、南北朝時代には京都に北朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位を継承した。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

正中(しょうちゅう)の変
 後醍醐(ごだいご)天皇による一度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件。1324後醍醐天皇は権中納言・日野資朝(ひのすけとも)、蔵人・日野俊基(としもと)、美濃の武士・多治見国長(たじみくになが)や土岐頼兼(ときよりかね。頼時)らと無礼講と称して幕府転覆の密談を重ねるが、一族の船木頼春(ふなきよりはる。頼治。土岐頼員)が六波羅探題(ろくはらたんだい)に密告、京都の宿所を急襲されて国長・頼兼らは敗死し、資朝は佐渡に流刑、後醍醐天皇も疑われたが、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に言い訳させて乗り切った。
秘密味

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。

摂関家(せっかんけ)
 摂政・関白を独占して世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。

僧兵(そうへい)=悪僧(あくそう)
 武装した僧、またはその集団。興福寺(南都)と延暦寺(北嶺)のものが特に知られ、よく朝廷に対して強訴(ごうそ)を行った。

勅撰和歌集(ちょくせんかんしぶんしゅう)=二十一代集(にじゅういちだいしゅう)
 平安〜室町時代に天皇・上皇・法皇の命令で編集された和歌集。最初のものは紀貫之(きのつらゆき)らによる『古今和歌集(こきんわかしゅう)』、最後は『続新古今和歌集(ぞくしんこきんわかしゅう)』。全部で二十一集編集された。

土岐氏(ときし)
 中世に栄えた氏族。室町時代の美濃守護家。氏祖は源頼光(みなもとのよりみつ)の子孫・源光衡(みつひら)。頼貞(よりさだ)が足利尊氏に従って美濃守護となり、最盛期には尾張・伊勢守護も兼ねたが、1388-1390土岐康行の乱などで衰退、頼芸(よりあき)の代に斎藤道三(さいとうどうさん)によって追放された。⇒土岐氏系図秘密味

得宗=徳宗(とくそう)
 北条(ほうじょう)氏本家の家督のこと。北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)・泰時(やすとき)・時氏(ときうじ)・経時(つねとき)・時頼(ときより)・時宗(ときむね)・貞時(さだとき)・高時(たかとき)の九代。

南都・北嶺(なんと・ほくれい)
 比叡山(ひえいざん。滋賀県大津市)の延暦寺(えんりゃくじ)と奈良(奈良県奈良市)の興福寺(こうふくじ)のこと。二寺は平安時代以降、日本の仏教教学の中心であり、強力な僧兵(そうへい)を抱えていることで知られていた。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

北条貞時(ほうじょうさだとき)
 (1271-1311) 武将。鎌倉幕府九代執権(在職1284-1301)。得宗(とくそう)。時宗(ときむね)の子。母は安達泰盛(あだちやすもり)の妹か娘。1284父の死で執権になり、1285霜月騒動で泰盛を討って実権を掌握した平頼綱を1293に滅ぼし(平禅門の乱)、1297御家人救済のため永仁(えいにん)の徳政令を発令、1301執権を退くが、その後も得宗として政務を執った。揉事味

北条氏(ほうじょうし)
 @鎌倉(かまくら)北条氏。古代〜中世の武家。氏祖は北条時方(ときかた)。その子・時政(ときまさ)が源頼朝(みなもとのよりとも)の舅(しゅうと)として初代執権となり、代々世襲して繁栄するが、1333元弘の乱で敗れて滅亡した。
 A小田原(おだわら)北条氏。後北条氏とも。中世の武家。氏祖は北条早雲(そううん。伊勢長氏)。今川家の内紛で独立し、伊豆・相模を平定、小田原を本拠とし、五代に渡って関東に覇をなしたが、1590豊臣秀吉によって滅ぼされた。

北条高時(ほうじょうたかとき)
 (1316-1333) 武将。鎌倉幕府十四代執権(在職1316-1326)。最後の得宗(とくそう)。貞時(さだとき)の子。1311父の死で家督を継ぎ、1316執権に就任、舅・安達時顕(あだちときあき)、内管領・長崎高綱(ながときたかつな)・高資(たかすけ)父子に幕政を任せ、1326執権を辞めて田楽(でんがく)や闘犬(とうけん)に熱中、1331挙兵した後醍醐(ごだいご)天皇を逮捕し、隠岐へ流刑にするが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、一族とともに東勝寺(とうしょうじ)で自殺した。

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。

源義家(みなもとのよしいえ)=八幡太郎(はちまんたろう)
 (1039-1106) 武将。源頼義(よりよし)の子。1051-1062前九年の役(ぜんくねんのえき。前九年合戦)に従軍し、1063出羽守に、1083陸奥守・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任、1083-1087後三年の役(ごさんねんのえき。後三年合戦)で清原清衡(きよはらのきよひら。後の藤原清衡)を助け、清原家衡(いえひら)・清原武衡(たけひら)を討ち、武家の棟梁(とうりょう)の地位を確立、1098院の昇殿を許された。

室町幕府(むろまちばくふ)=足利(あしかが)幕府
 (1336?-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒し、1338征夷大将軍に就任して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1467-1477応仁の乱後に弱体化し、1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

綸旨(りんじ・りんし)
 天皇の命令のこと。特に天皇の意を受けて蔵人など側近が発行する文書のこと。平安時代末期から南北朝時代に多く発行され、建武の新政では絶対万能とされた。

六波羅探題(ろくはらたんだい)
 鎌倉幕府の京都支所。南方・北方の二府。前身は京都守護。朝廷の監視や、尾張(のち三河)以西の御家人を統制した。1221承久(じょうきょう)の乱後に設置。初代探題は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時房(ときふさ)。最後の探題は北条時益(ときます)・仲時(なかとき)。1333足利尊氏(あしかがたかうじ)らの攻撃を受け、時益・仲時らは敗死、幕府に先んじて滅亡した。⇒京都守護

和歌(わか)
 日本固有の詩歌。古代歌謡の流れを汲む五音・七音を基調とする短歌・長歌・旋頭歌などの総称。『万葉集(まんようしゅう)』で確立され、平安時代以降は主に短歌をさすようになった。

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