5.被葬者はエロだった!

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キトラ古墳の被葬者は誰か?
1.被葬者は豪族か?
2.被葬者は渡来人か?
3.被葬者は天皇の皇子か?
4.被葬者はズバリこの人!
5.被葬者はエロだった!
    

 ここで疑問がまた生じてきた。
「長皇子は草壁皇子や大津皇子に比べてどうして影が薄いのか?」
 という疑問である。

 それは、知の草壁皇子、武の大津皇子に比べ、さしたる特長がなかったとしかいいようがない。
 無難な男だったがために権力を振るうこともなく、逆に政争に巻き込まれなかったため細く長く生き、短命の当時としては天寿をまっとうしたといっていいであろう。
「何が権力じゃ」
 彼は競争よりも友好、仕事よりも遊び、出世よりも恋愛に重点を置いていたようである。
 そのためか、栗栖王
(くるすおう・くるすのおおきみ)・文室浄三(ふんやのきよみ。智努王)・文室大市(おおいち。邑珍王)など、子は多かった。後に蝦夷征討で活躍する文室綿麻呂(わたまろ)や、六歌仙の一人・文屋康秀(ふんやの・ぶんやのやすひで)なども彼の子孫である。

六歌仙
遍照(へんじょう)
在原業平(ありわらのなりひら)
文屋康秀(ふんやのやすひで)
喜撰(きせん)
小野小町(おののこまち)
大友黒主(おおとものくろぬし)

万葉集』には、長皇子の歌が五首載せられている。
 最後にそれらを紹介したい。
 御覧のように、オンナの歌ばかりである。

 1.持統天皇の三河行幸に随行したときの歌

  宵(よひ)に逢ひて朝(あした)(おも)なみ名張(なばり)にか日(け)長く妹(いも)が廬(いほ)りせりけむ

 2.持統天皇の難波行幸に随行したときの歌

  霰(あられ)打つあられ松原住吉(すみのえ)の弟日娘女(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも

 3.文武天皇の難波行幸に随行したときの歌

  我妹子を早見浜風大和なる我れ松椿(つばき)吹かずあるなゆめ

 4.佐紀(さき。奈良市)の自邸で志貴皇子と宴会をしたときの歌

  秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿(か)鳴かむ山ぞ高野原の上

 5.オンナのふりして弟(弓削皇子)に贈った歌

  丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛し我が背いで通ひ来ね

[2005年3月末日執筆]
参考文献はコチラ

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