2.被葬者は渡来人か? | ||||||||||||||
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渡来人の中で有力なのが、百済王昌成(くだらのこきししょうせい・くだらのこにきししょうせい)である。
昌成の父は百済王善光(ぜんこう。禅広)といい、その名の通り百済からの渡来人であった。
それも彼は、以前紹介した百済河成(かわなり)のように、ただの百済人ではなかった(「日韓味」参照)。
百済の下に「王」が付いているわけである。
どういうことなのか?
つまり彼は、百済王家のプリンスだったのだ。
善光の父・義慈王(ぎじおう。末王)は百済の国王であった。
斉明天皇六年(660)、百済は唐・新羅連合軍に攻められて滅亡、義慈王は捕らえられ、まもなく死んだ。
義慈王には、三人の男子がいた。
長男・隆(りゅう)は父と共に捕らえられ、唐に連行された。
次男・豊璋(ほうしょう)は後に百済の遺臣によって国王に擁立されたが、白村江の戦で完敗、高句麗へ逃亡した(「日朝味」参照)。
「だめだこりゃ」
日本は大陸をあきらめた。
同時に百済の復興も見放したわけである。
そのため、三男・善光は、準皇族の待遇を受けて日本に住んだ。
「でも、いつかは祖国に」
そういう思いから、いつでも帰国できるように難波(なにわ。大阪)に近い河内に住み着いたのであろう。
だから、息子の昌成に先立たれたときも、
「祖国があれば、お前は王位継承者だった」
と、皇族級の古墳を造営してあげたとも思えなくはない。
しかも古墳には、中国や朝鮮の墳墓にも見られる四神図や星宿図がある。
さらにその絵は高句麗出身の絵師が描いているという。
「間違いない! キトラ古墳は百済王家の墓だ!」
そう思われる人があってもおかしくはない。
ただ、不可解な点がある。
それならなぜ、墓を本拠地の河内に造らなかったかという疑問である。
現在の大阪府枚方市に、中宮(ちゅうぐう)という地名がある。
これは「天空の中心」という意味であり、百済王家はこの地に本拠を置き、「小百済(リトルクダラ)」を営み、寺(百済寺)や神社(百済王神社)を建てた。
それなのになぜ墓だけを「天空の中心」から外れまくった飛鳥の地に造ったのであろうか?
そう考えると、やはりキトラ古墳は百済王家とは無関係だったとしか思えない。
では、キトラ古墳付近で勢力を張っていた渡来系豪族はいないのか?
東漢氏がいる。
しかしながら当時の彼らの中には、皇族級の墓を造ることができる実力者はいなかったはずである。