1.楠木正成参上! | ||||||||||||||
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鎌倉時代後期、皇統は二つに分かれていた。
持明院統と大覚寺統である。
両派は互いに皇位を争い、その仲は、暗殺未遂事件を起こすまでに険悪化していた(「刺客味」参照)。
皇位継承争いは、壬申の乱や保元の乱のように、時には国家を揺るがす大乱へと拡大することがある。
鎌倉幕府は警戒し両統迭立を提案した。
「ケンカせずに代わりばんこに天皇を出し合えばいいじゃないか」
文保元年(1317)、両派の間で協議がなされた。
そして、
「今の天皇は十年たったら次の天皇に交替することにする」
「次の天皇と皇太子は大覚寺統から、その次は持明院統から出すことにする」
という取り決めがなされた。
いわゆる「文保の和談(ぶんぽうのわだん。文保の御和談)」である。
翌年、この取り決めによって、在位十年を経た持明院統の花園天皇(はなぞのてんのう)が大覚寺統の尊治親王に譲位、尊治親王は後醍醐天皇として即位した(「天皇家系図」参照)。
つまり、十年後には後醍醐天皇も譲位しなければならなかったのである。
楠木正成 PROFILE | |
【生没年】 | 1292?-1336 |
【別 名】 | 多聞丸・大楠公 |
【出 身】 | 河内国水分(大阪府千早赤阪村) |
【本 拠】 | 河内国水分(大阪府千早赤阪村) |
【職 業】 | 武将・悪党 |
【役 職】 | 記録所寄人・恩賞方寄人 ・雑訴決断所一番局奉行 ・検非違使・左衛門尉・河内守 ・摂津河内和泉守護 |
【位 階】 | 従五位下→従五位上 |
【 父 】 | 楠木正遠? |
【 子 】 | 楠木正行(少楠公) ・楠木正時・楠木正儀 |
【兄 弟】 | 楠木俊親・正氏(正季)・正家 |
【 甥 】 | 和田賢秀ら |
【主 君】 | 後醍醐天皇 |
【側 近】 | 橋本正員・宇佐美正安ら |
【盟 友】 | 新田義貞・北畠顕家ら |
【仇 敵】 | 北条高時・足利尊氏ら |
【墓 地】 | 湊川神社(神戸市中央区) ・観心寺(大阪府河内長野市) ・千早城跡五輪塔(大阪府千早赤阪村) |
が、後醍醐天皇に皇位を手放す様子はなかった。期限が迫っても、何事もなかったような顔をし続けていた。
「こんなおいしいもの、誰がくれてやるものか」
当然、持明院統の人々は怒り出した。
「話が違う!」
訴えを受けて幕府も念を押した。
「もうすぐ譲位するんだよ」
「いやだ」
「そんなこと言わずに〜」
そうこうしているうちに、皇太子・邦良親王(くによししんのう。後醍醐天皇の甥)が若死してしまった。
持明院統や幕府の人々は喜んだ。
「はい。今度の皇太子は持明院統からだ」
「次の次の皇太子も持明院統からだ」
「これからは幕府と結んだ持明院統の天下だ」
「マイナイを忘れないように」
「もちろんですとも!」
後醍醐天皇はよからぬことを考えるようになった。
「何で幕府が皇統のことに口出しするのだ。だいたい幕府とは何だ? 朝廷という立派な政府がありながら、何で別個にそんな妙な武家政権があるのだ?」
そして、結論に至った。
「そうだ。幕府なんかなくなればいいのだ」
後醍醐天皇は鎌倉幕府の崩壊を願った。
ブレイン妖僧・文観(もんかん)や円観(えんかん)らを使って幕府に呪いをかけさせた。何やらこの辺はいつかきた道である(「将軍味」参照)。
そして彼にも、そそのかす悪女がいた。初代新待賢門院(しんたいけんもんいん)阿野廉子(あのれんし。三位局)である。
廉子はささやいた。
「直接滅ぼしたほうが早いんじゃないの?」
後醍醐天皇もそう思った。
正中元(1324)年、後醍醐天皇は側近・日野資朝(ひのすけとも)らと倒幕の挙兵を画策するが、密告によって事前に発覚、美濃の土豪・多治見国長(たじみくになが)は殺され、資朝は佐渡に島流しにされた。
いわゆる正中の変である(「秘密味」参照)。
「事件の首謀者は帝(みかど)だ」
後醍醐天皇は幕府に疑われたが、必死で弁解したこともあって、許してもらえた。
元弘元(1333)年五月、後醍醐天皇は懲りずに二度目の挙兵を計画した。
いわゆる元弘の変であり、元弘の乱の始まりである。
が、またしても近臣・吉田定房(よしださだふさ)の密告によって事は露見、危険を感じた後醍醐天皇は同年八月に京都を脱出した。
後の三房 |
万里小路宣房(までのこうじのぶふさ) 北畠親房(きたばたけちかふさ) 吉田定房(よしださだふさ) |
吉田定房といえば、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)・北畠親房とともに「後の三房」といわれた後醍醐天皇の側近中の側近であった。
後醍醐天皇は追い詰められ、京都南郊の山城笠置山(かさぎやま。京都府笠置町)で挙兵した。八月終わりのことである。
「定房め、信じておったのに。朕(ちん)に忠臣はおらぬのか」
後醍醐天皇は嘆いた。
ある日、後醍醐天皇はうたた寝中に夢を見た。
御所の庭と思われるところに大きな常緑樹があり、その南に豪華な座席が用意されていた。
(これは誰の席であろうか?)
後醍醐天皇が不思議に思っていると、どこからともなく二人の子供が現れた。
「あなた様のお席でございます〜」
子供はそう告げると、空のかなたへ飛んで去っていき、夢も覚めた。
「不思議な夢だ」
後醍醐天皇は自分で夢解きをした。
「豪華な座席というのは、朕が天下を取ることの現れであろう。そしてあの常緑樹が、朕の大願を成就させてくれるのだ。――はて、あの常緑樹、なんという木であったか?」
後醍醐天皇はしばらく考えて思い出した。
「木の南の座席――。そうだ! 楠(くすのき)だ!」
後醍醐天皇はこの辺の「クスノキ」なる武士がいないか、笠置寺の僧に聞いてみた。
すると、河内金剛山(こんごうさん。大阪府・奈良県境)のふもとに楠木正成なる武略にたけた悪党がいるという。
そこで、側近・万里小路藤房(ふじふさ。万里小路宣房の子)を遣わし、正成なる悪党を呼び寄せて問うてみた。
「朕が鎌倉幕府を倒し、天下を取れる方法はあるか?」
正成は答えた。
「天下を取るには武力と知略が必要です。幕府は武力はありますが、知略が欠けています。武力だけに頼らず、知略をもってすれば、これを倒すことはたやすいでしょう。――けれども勝負は時の運です。初めはうまくいかず、負けることもあるでしょう。ただし、たとえ一時期は敗れても、この正成がどこかで生きている限り、聖運は必ず開かれるとお思いください」
後醍醐天皇は喜んだ。
「まさしく夢のような男だ」