1.楠木正成参上!

ホーム>バックナンバー2003>1.楠木正成(くすのきまさしげ)参上!

イラク戦争と赤坂・千早の戦
1.楠木正成参上!
2.壮絶! 熾烈! 赤坂城の戦!!
3.怒涛! 激闘! 千早城の戦!!

 鎌倉時代後期、皇統は二つに分かれていた。
 持明院統大覚寺統である。
 両派は互いに皇位を争い、その仲は、暗殺未遂事件を起こすまでに険悪化していた
(「刺客味」参照)

 皇位継承争いは、壬申の乱保元の乱のように、時には国家を揺るがす大乱へと拡大することがある。
 鎌倉幕府は警戒し両統迭立を提案した。
「ケンカせずに代わりばんこに天皇を出し合えばいいじゃないか」

 文保元年(1317)、両派の間で協議がなされた。
 そして、
「今の天皇は十年たったら次の天皇に交替することにする」
「次の天皇と皇太子は大覚寺統から、その次は持明院統から出すことにする」
 という取り決めがなされた。
 いわゆる「文保の和談
(ぶんぽうのわだん。文保の御和談)」である。

 翌年、この取り決めによって、在位十年を経た持明院統の花園天皇(はなぞのてんのう)大覚寺統尊治親王に譲位、尊治親王は後醍醐天皇として即位した(「天皇家系図」参照)
 つまり、十年後には後醍醐天皇も譲位しなければならなかったのである。

楠木正成 PROFILE
【生没年】 1292?-1336
【別 名】 多聞丸・大楠公
【出 身】 河内国水分(大阪府千早赤阪村)
【本 拠】 河内国水分(大阪府千早赤阪村)
【職 業】 武将・悪党
【役 職】 記録所寄人・恩賞方寄人
・雑訴決断所一番局奉行
・検非違使・左衛門尉・河内守
・摂津河内和泉守護
【位 階】 従五位下→従五位上
【 父 】 楠木正遠?
【 子 】 楠木正行(少楠公)
・楠木正時・楠木正儀
【兄 弟】 楠木俊親・正氏(正季)・正家
【 甥 】 和田賢秀ら
【主 君】 後醍醐天皇
【側 近】 橋本正員・宇佐美正安ら
【盟 友】 新田義貞・北畠顕家ら
【仇 敵】 北条高時・足利尊氏ら
【墓 地】 湊川神社(神戸市中央区)
・観心寺(大阪府河内長野市)
・千早城跡五輪塔(大阪府千早赤阪村)

 が、後醍醐天皇に皇位を手放す様子はなかった。期限が迫っても、何事もなかったような顔をし続けていた。
「こんなおいしいもの、誰がくれてやるものか」
 当然、持明院統の人々は怒り出した。
「話が違う!」
 訴えを受けて幕府も念を押した。
「もうすぐ譲位するんだよ」
「いやだ」
「そんなこと言わずに〜」

 そうこうしているうちに、皇太子・邦良親王(くによししんのう。後醍醐天皇の甥)が若死してしまった。
 持明院統幕府の人々は喜んだ。
「はい。今度の皇太子は持明院統からだ」
「次の次の皇太子も持明院統からだ」
「これからは幕府と結んだ持明院統の天下だ」
「マイナイを忘れないように」
「もちろんですとも!」

 後醍醐天皇はよからぬことを考えるようになった。
「何で幕府が皇統のことに口出しするのだ。だいたい幕府とは何だ? 朝廷という立派な政府がありながら、何で別個にそんな妙な武家政権があるのだ?」
 そして、結論に至った。
「そうだ。幕府なんかなくなればいいのだ」

 後醍醐天皇鎌倉幕府の崩壊を願った。
 ブレイン妖僧・文観
(もんかん)や円観(えんかん)らを使って幕府に呪いをかけさせた。何やらこの辺はいつかきた道である(「将軍味」参照)
 そして彼にも、そそのかす悪女がいた。初代新待賢門院
(しんたいけんもんいん)阿野廉子(あのれんし。三位局)である。
 廉子はささやいた。
「直接滅ぼしたほうが早いんじゃないの?」
 後醍醐天皇もそう思った。

 正中元(1324)年、後醍醐天皇は側近・日野資朝(ひのすけとも)らと倒幕の挙兵を画策するが、密告によって事前に発覚、美濃の土豪・多治見国長(たじみくになが)は殺され、資朝は佐渡に島流しにされた。
 いわゆる正中の変である
(「秘密味」参照)
「事件の首謀者は帝
(みかど)だ」
 後醍醐天皇幕府に疑われたが、必死で弁解したこともあって、許してもらえた。

 元弘元(1333)年五月、後醍醐天皇は懲りずに二度目の挙兵を計画した。
 いわゆる元弘の変であり、元弘の乱の始まりである。
 が、またしても近臣・吉田定房
(よしださだふさ)の密告によって事は露見、危険を感じた後醍醐天皇は同年八月に京都を脱出した。

後の三房
万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)
北畠親房(きたばたけちかふさ)
吉田定房(よしださだふさ)

 吉田定房といえば、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)北畠親房とともに「後の三房」といわれた後醍醐天皇の側近中の側近であった。
 後醍醐天皇は追い詰められ、京都南郊の山城笠置山
(かさぎやま。京都府笠置町)で挙兵した。八月終わりのことである。
「定房め、信じておったのに。朕
(ちん)に忠臣はおらぬのか」
 後醍醐天皇は嘆いた。

 ある日、後醍醐天皇はうたた寝中に夢を見た。
 御所の庭と思われるところに大きな常緑樹があり、その南に豪華な座席が用意されていた。
(これは誰の席であろうか?)
 後醍醐天皇が不思議に思っていると、どこからともなく二人の子供が現れた。
「あなた様のお席でございます〜」
 子供はそう告げると、空のかなたへ飛んで去っていき、夢も覚めた。

「不思議な夢だ」
 後醍醐天皇は自分で夢解きをした。
「豪華な座席というのは、朕が天下を取ることの現れであろう。そしてあの常緑樹が、朕の大願を成就させてくれるのだ。――はて、あの常緑樹、なんという木であったか?」
 後醍醐天皇はしばらく考えて思い出した。
「木の南の座席――。そうだ! 楠
(くすのき)だ!」

 後醍醐天皇はこの辺の「クスノキ」なる武士がいないか、笠置寺の僧に聞いてみた。
 すると、河内金剛山
(こんごうさん。大阪府・奈良県境)のふもとに楠木正成なる武略にたけた悪党がいるという。

 そこで、側近・万里小路藤房(ふじふさ。万里小路宣房の子)を遣わし、正成なる悪党を呼び寄せて問うてみた。
「朕が鎌倉幕府を倒し、天下を取れる方法はあるか?」
 正成は答えた。
「天下を取るには武力と知略が必要です。幕府は武力はありますが、知略が欠けています。武力だけに頼らず、知略をもってすれば、これを倒すことはたやすいでしょう。――けれども勝負は時の運です。初めはうまくいかず、負けることもあるでしょう。ただし、たとえ一時期は敗れても、この正成がどこかで生きている限り、聖運は必ず開かれるとお思いください」
 後醍醐天皇は喜んだ。
「まさしく夢のような男だ」

inserted by FC2 system