19.窮地味 基礎用語集

悪党(あくとう)
 一般的には悪いヤツのこと。狭義には鎌倉〜南北朝時代に領主や幕府の支配に反抗し、荘園を侵したり、年貢を治めなかったり奪ったりしていた集団。

足利尊氏(あしかがたかうじ)
 (1305-1358) はじめ高氏。武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後、鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武(けんむ)の親政(しんせい)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦いで新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府、後醍醐天皇の開いた南朝と戦い、1339後醍醐天皇が没すると、夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで弟・足利直義(ただよし)とともに天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では、執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義とも交戦した。

江戸幕府(えどばくふ)・徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

大坂の役(おおさかのえき)=大坂冬の陣(ふゆのじん)+大坂夏の陣
(冬の陣) 1600関ヶ原の戦に勝って天下を取った徳川家康(とくがわいえやす)は、豊臣家滅亡を謀り、1614方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)にいちゃもんをつけて豊臣家を挑発、多数の牢人(ろうにん。浪人)を雇ったことを口実に二十万の大軍で大坂城を攻囲するが、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らの奮戦で攻めきれず、講和した。籠城味

(夏の陣) 家康は大坂城の外堀だけを埋めるという講和条件を無視し、内堀まで埋めて豊臣家を挑発、重ねて無理難題を突きつけ、受け入れられないと知るや諸大名に出陣命令、十五万の大軍で再び大坂城に攻め寄せた。豊臣方も奮戦するがかなわず、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らは戦死、大坂城は炎上し、淀殿(よどぎみ)・豊臣秀頼(ひでより)母子は自害、豊臣家は滅亡した。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝がここを本拠に幕府を開き、政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)が住み、東国支配の中心となった。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1192-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。 

北畠親房(きたばたけちかふさ)
 (1293-1354) 公卿・武将・学者。師重(もろしげ)の子。万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)・吉田定房(よしださだふさ)とともに「後の三房」と呼ばれて後醍醐(ごだいご)天皇の信任を受け、大納言・准大臣(じゅんだいじん)に昇進、1333長男の顕家(あきいえ)とともに義良(よしのり)親王を奉じて陸奥へ下り、1335足利尊氏(あしかがたかうじ)がそむくと上洛するが、尊氏の東上によって伊勢へ引き、常陸で抗戦、吉野(よしの)に戻って南朝の重鎮となり、戦いの合間に史書『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』有職故実(ゆうそくこじつ)書『職原抄(しょくげんしょう)』を著した。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

楠木正成(くすのきまさしげ)
 (1294?-1336) 武将。1333元弘(げんこう)の乱で後醍醐(ごだいご)天皇につき、河内赤坂(あかさか)城・千早(ちはや)城に籠城(ろうじょう)、鎌倉幕府軍を撃退し、建武(けんむ)の新政(中興)に参与、摂津・河内・和泉守護・河内国司に任じられ、1336謀反を起こした足利尊氏(あしかがたかうじ)を敗走させるが、再挙した尊氏に湊川(みなとがわ)の戦いで敗死した。
窮地味

元弘の乱(げんこうのらん)≧元弘の変
 1331後醍醐(ごだいご)天皇による二度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件とその後に鎌倉幕府を滅ぼした戦い。1324正中(しょうちゅう)の変にも懲りずに後醍醐天皇は再び倒幕の計画を練るが、近臣・吉田定房(よしださだふさ)が幕府に密告、日野俊基(ひのとしもと)・文観(もんかん)らは逮捕され、危険を感じた後醍醐天皇は京都を脱出、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが、敗れて捕らえられ、隠岐へ島流しにされた。しかしこの後、楠木正成(くすのきまさしげ)ら悪党の活躍や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)ら有力御家人の裏切りによって鎌倉幕府は崩壊した。
窮地味 子供味 隠岐味

建武の新政(けんむのしんせい)=建武の中興(ちゅうこう)=建武政権
 (1333-1336) 鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇の政治(政権)。1333鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、中央に記録所(政務)・雑訴決断所(訴訟)・恩賞方(論功行賞)・武者所(軍事・警察。頭人新田義貞)など、地方に鎌倉将軍府(関東統治)・陸奥将軍府(東北統治)・国司・守護などを設置して親政を行ったが、1336足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱によって崩壊した。

光厳上皇(こうごんじょうこう)←光厳天皇←量仁親王(かずひとしんのう)
 (1313-1364) 北朝初代天皇(在位1331-1333。院政1336-1351)。後伏見(ごふしみ)天皇の皇子。1326後醍醐(ごだいご)天皇の皇太子になり、1333天皇が京都を脱出して山城笠置山(かさぎやま)で挙兵すると、鎌倉幕府に擁立されて即位、1333幕府滅亡によって廃されるが、1336弟・光明(こうみょう)天皇が足利尊氏(あしかがたかうじ)に擁されて即位すると院政を開始、1351正平一統(しょうへいいっとう)で退き、1352南朝に拉致されて出家するが、1357京都に戻り、丹波で隠棲(いんせい)した。

高野山(こうやさん)
  和歌山県高野町にある標高千メートル内外の山地。真言宗(しんごんしゅう)総本山・金剛峰寺(こんごうぶじ)がある。

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。 揉事味1

国際連合(こくさいれんごう)・国連(こくれん)
 (1945-) 1945戦勝国五十一か国によって成立した国際機関。本部はニューヨーク。日本は1956加盟。総会・安全保障理事会(アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国からなる常任理事国五か国と総会で選ばれた非常任理事国十か国からなる)・経済社会理事会・信託統治理事会・国際司法裁判所・事務局などからなる。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339)名は尊治(たかはる)。後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。
窮地味

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)・後鳥羽上皇(じょうこう)・尊成親王(たかひらしんのう)
 (1180-1239) 伝八十二代天皇(在位1183-1198。院政1198-1221)。高倉(たかくら)天皇の皇子。 1183平氏の都落ち後に即位し、1198土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を開始、1201和歌所(わかどころ)を設置して藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)・藤原家隆(かりゅう・いえたか)らに『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集させ、自身でも有職故実(ゆうそくこじつ)書『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』などを著述、実力者・源通親(みなもとのみちちか)没後は朝廷の実権を掌握し、西面(さいめん)の武士を設置して幕府と対立、1221三代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して幕府打倒を目指したが、返り討ちにあって隠岐へ島流しにされた(承久の乱)。
将軍味4 栄光味

持明院統(じみょういんとう)
 プレ北朝。後深草(ごふかくさ)天皇の皇統。持明院を院御所とした。鎌倉時代から大覚寺(だいかくじ)統と対立し、南北朝時代には京都に北朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位を継承した。

荘園(しょうえん)
 貴族や寺社の私有地。自力で開墾したもの(自墾地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

正中(しょうちゅう)の変
 後醍醐(ごだいご)天皇による一度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件。1324後醍醐天皇は権中納言・日野資朝(ひのすけとも)、蔵人・日野俊基(としもと)、美濃の武士・多治見国長(たじみくになが)や土岐頼兼(ときよりかね。頼時)らと無礼講と称して幕府転覆の密談を重ねるが、一族の船木頼春(ふなきよりはる。頼治。土岐頼員)が六波羅探題(ろくはらたんだい)に密告、京都の宿所を急襲されて国長・頼兼らは敗死し、資朝は佐渡に流刑、後醍醐天皇も疑われたが、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に言い訳させて乗り切った。
秘密味

壬申(じんしん)の乱
 皇位継承をめぐる飛鳥時代最大の内乱。671天智(てんち・てんじ)天皇の死後、子の大友(おおとも)皇子(弘文天皇)と弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)が対立、672大海人皇子は吉野(よしの)で挙兵し、伊勢へ下向、村国男依(むらくにのおより)に美濃・尾張国司を懐柔させ、不破(ふわ)・鈴鹿関(すずかのせき)を封鎖、大伴吹負(おおとものふけい)に飛鳥古京を占拠させた。大友皇子は大和・伊賀で攻勢に出るが反撃され、近江の瀬田(せた)で完敗、大津宮(おおつのみや)で自殺した。乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ遷都、673天武天皇として即位した。

清和源氏(せいわげんじ)
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族。平安後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)氏・新田(にった)氏などもこの家系。

長州戦争(ちょうしゅうせんそう)=長州征討=長州征伐=征長の役=対長戦争=幕長戦争
 江戸幕府と長州(萩)藩との戦争。[第一次] 1864禁門(きんもん)の変を起こした長州藩に対し、幕府は朝廷の許可を得て西国諸藩に出兵を命令、前尾張(名古屋)藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)を征長総督に、越前(福井)藩主・松平茂昭(まつだいらしげあき)を副総督に任命、十五万の大軍で取り囲んだが、長州藩では俗論派(佐幕派)が藩政を掌握、反対派の三老臣(益田親施・福原元|・国司朝相)の首を差し出したため、総攻撃は中止になった。 [第二次] 1865長州藩で高杉晋作ら倒幕派が台頭したため1866幕府が再征し、芸州口・石州口・小倉口で交戦するが幕府軍は苦戦、将軍・徳川家茂が休止したため停戦した。

大覚寺統(だいかくじとう)
 プレ南朝。亀山(かめやま)天皇の皇統。大覚寺を院御所とした。鎌倉時代から持明院(じみょういん)統と対立し、南北朝時代には吉野に南朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位に就くことなく衰退した。 

太平記(たいへいき)
 軍記物語の一。四十巻。応安年間(1368-1375)成立。小島法師?著。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱を描く。 

茶の湯(ちゃのゆ)→茶道(さどう・ちゃどう)
 喫茶の作法。平安時代に最澄(さいちょう)が唐(とう)から茶の実を持ち帰り、鎌倉時代に明庵栄西(みょうあんえいさい)が飲み方を広め、室町時代に村田珠光(むらたじゅこう)が侘び茶を創始し、武野紹鴎(たけのじょうおう)がこれを簡素化、千利休(せんのりきゅう)が茶道として大成した。

得宗=徳宗(とくそう)
 北条(ほうじょう)氏本家の家督のこと。北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)・泰時(やすとき)・時氏(ときうじ)・経時(つねとき)・時頼(ときより)・時宗(ときむね)・貞時(さだとき)・高時(たかとき)の九代。

内管領(ないかんれい・うちかんれい・うちのかんれい)
 得宗(とくそう)家の執事のこと。御内人(みうちびと。得宗直臣)の代表。鎌倉後期、執権の後見人として権勢を誇った。平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高綱(たかつな。円喜)・高資(たかすけ)父子がその代表。

南京大虐殺(ナンキンだいぎゃくさつ)=南京虐殺事件=南京事件
 1937日本軍が南京で起こした虐殺事件。日中戦争で松井石根(まついいわね)率いる上海派遣軍と柳川平助(やながわへいすけ)率いる第十軍は国民政府の首都・南京を攻略、捕虜や一般市民に対して略奪・強姦・放火・暴行・殺人などを行った。死者数は数万から四十数万人まで諸説ある。

新田義貞(にったよしさだ)
 (?-1338) 武将。新田朝氏(ともうじ)の子。1333分倍河原(ぶばいがわら)の戦などで幕府軍を破り、鎌倉を攻略(鎌倉幕府滅亡)、1333-1335建武政権で武者所頭人(むしゃどころとうにん)に就き、1335後醍醐(ごだいご)天皇に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)討伐に向かうも竹ノ下の戦で敗退、上洛した尊氏を西海に追うが、1336湊川(みなとがわ)の戦で敗走、恒良(つねよし)親王を奉じて北陸に下るが、1337越前金ヶ崎(かねがさき。福井県敦賀市)城が陥落、1338藤島(ふじしま)の戦で斯波高経(しばたかつね)に敗死した。
進撃味

日露戦争(にちろせんそう)
 (1904-1905) 朝鮮・満州の支配権をめぐる日本とロシアの戦争。日本は1900北清事変後、満州占領を続けたロシアに対抗、1902日英同盟を結んで1904ロシアを攻め、乃木希典(のぎまれすけ)が旅順(りょじゅん)を攻略、1905大山巌(おおやまいわお)が奉天(ほうてん)会戦で勝ち、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が日本海海戦でバルチック艦隊を粉砕、アメリカの仲介で講和条約(ポーツマス条約)を調印し、ロシアに韓国指導権・関東州租借権・長春(ちょうしゅん)以南の鉄道の権益を認めさせ、樺太(からふと)の南半分の領土と沿海州・カムチャツカの漁業権を獲得したが、賠償金がもらえなかったため、日比谷(ひびや)焼打ち事件が起こった。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

保元の乱(ほうげんのらん・ほげんのらん)
 1156上皇派(崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正ら)と天皇派(後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛ら)が京都で戦った内乱。戦いは天皇派の夜襲が成功し、一日で決着。頼長は敗死し、為義・忠正は処刑され、崇徳上皇は讃岐へ流された。

北条高時(ほうじょうたかとき)
 (1303-1333) 武将。鎌倉幕府第十四代執権(在職1316-1326)。第七代得宗(とくそう)。貞時(さだとき)の子。1311父の死で家督を継ぎ、1316執権に就任、舅・安達時顕(あだちときあき)、内管領・長崎高綱(ながときたかつな)・高資(たかすけ)父子に幕政を任せ、1326執権を辞めて田楽(でんがく)や闘犬(とうけん)に熱中、1331挙兵した後醍醐(ごだいご)天皇を逮捕し、隠岐へ流刑にするが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、一族とともに東勝寺(とうしょうじ)で自害した。
進撃味 離脱味

奉天会戦(ほうてんかいせん)
 日露戦争最大の激戦にして最後の陸戦。日本は二十五万人(死傷者七万人)、ロシアは三十二万人(死傷者九万人)の兵力を投入した。1904日本軍は大山巌(おおやまいわお)ら第一・二・四軍が遼陽(りょうよう)を占領し(遼陽の戦い・遼陽会戦)、1905乃木希典(のぎまれすけ)ら第三軍旅順(りょじゅん)を攻略、主力を統合し、奉天でロシア軍を包囲撃滅させようと総攻撃を開始したが、数で勝るロシア軍はしぶとく、一週間後にロシア軍は撤退、奉天を攻略した。

源義仲(みなもとのよしなか)・木曽(きそ)義仲
 (1154-1184) 武将。源義賢(よしかた)の子。源頼朝(よりとも)・義経(よしつね)らの従兄弟。父の死後、乳母の夫・中原兼遠(なかはらかねとお)に養育され、1180以仁王(もちひとおう)の令旨に応じて信濃木曽で挙兵、1181北陸道を制圧し、1183倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏を破って上洛、1184後白河法皇(ごしらかわほうおう)から征夷大将軍に任じられるが、源義経・範頼(のりより)兄弟に近江粟津(あわづ)で敗死した。
ウシ味

護良親王(もりよししんのう・もりながしんのう)←尊雲法親王(そんうんほっしんのう)=大塔宮(おおとうのみや・だいとうのみや)
 (1308-1385) 皇族。武将。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は源親子?1323比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)梶井門跡大塔に入室し、1327天台座主(てんだいざす)となるが、1331倒幕のため比叡山を出て還俗、吉野(よしの)で挙兵し、諸将に令旨(りょうじ)を飛ばして倒幕に尽力、1333建武の親政で征夷大将軍・兵部卿になるが、足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立して幽閉され、1335中先代(なかせんだい)の乱の際、鎌倉で足利直義(ただよし)に殺された。
選択味

両統迭立(りょうとうてつりつ)
 両統が交替で皇位につくこと。持明院統と大覚寺統の対立の解決策として鎌倉幕府が提案し、1317詳細についての協議がなされたが(文保の和談)、以後も対立は治まらなかった。

連歌(れんが)
 上の句と下の句を交互に詠み合う文芸。室町時代が最盛期。代表的な連歌集は、二条良基(にじょうよしもと)の『菟玖波集(つくばしゅう)』・宗祗(そうぎ)の『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』、山崎宗鑑(やまざきそうかん)の『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』。

六波羅探題(ろくはらたんだい)
 鎌倉幕府の京都支所。南方・北方の二府。朝廷の監視や、尾張(のち三河)以西の御家人を統制した。1221承久(じょうきょう)の乱後に設置。初代探題は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時房(ときふさ)。1333足利尊氏(あしかがたかうじ)らの攻撃を受け、幕府に先んじて滅ぼされた。

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