6.俺は、君のためにこそ死ににいく

歴史チップス>バックナンバー2024>令和六年4月号(通算270号)窃盗味 鼠小僧次郎吉6.俺は、君のためにこそ死ににいく

窃盗は犯罪です
1.これから物語
2.借 王
3.出来ごころ
4.夜がまた来る
5.嘘八百
6.俺は、君のためにこそ死ににいく

 家族に見放された次郎吉は無宿人になった。
(俺は天涯孤独になった。もはや誰にも遠慮はいらない)
 次郎吉は深川
(ふかがわ。東京都江東区)の裏長屋を転々としながら武家屋敷を荒らしまわった。
 姉が務めている前田家以外、大名屋敷は全部制覇する勢いであった。
 天保三年(1832)までに荒らした武家屋敷は九十五家、侵入回数は延べ八百三十九回に及んだという。

 が、その年の五月八日についに終わりが訪れた。
 上野小幡藩二万石の大名屋敷
(松平忠恵邸)に忍び込んだところを逮捕され、北町奉行所に突き出されてしまったのである。
 時の北町奉行は榊原忠之
(さかきばらただゆき。主計頭)
「面を上げよ」
「……」
 次郎吉はさすがに今度は言い訳できないとみて、これまでに荒らしまくった大名屋敷と収益を全部白状してやった。
 榊原は確認した。
「なるほど。盗みの総額はおおよそ金三千百二十一両二分。銭九貫二百六十文。銀四匁三分。うち古金五両と銭七百文は取り捨て、その他は酒食遊興、バクチなどで全部使いきったで間違いはないか?」
「へい」
「ところで、なぜ武家屋敷ばかりをねらったのか? 大名をしのぐ商家も多々あるであろうに」
「商家より武家屋敷のほうが盗みやすかったからです。武家は家は守ろうとしますが、カネを守ろうとはしません。それに武家は恥を重んじますので、盗みに入られても届け出たりはしません」
「なるほど。武家もバカにされたものだの」
「本当のことを申したまでです」
「十年余りも江戸を震撼させた罪は重い。無宿入墨次郎吉、異名鼠小僧を極刑に処す!」
「ありがたき幸せ〜」

 八月十九日、次郎吉は市中引き回しの上、小塚原(こづかはら。骨ヶ原。東京都荒川区)で磔(はりつけ)、獄門(ごくもん)に懸けられた。享年三十六(または三十七)
「十年にわたって大名屋敷を荒らしまわっていた泥棒が逮捕されたそうな」
「引き回しの上、小塚原で処刑されるそうな」
「見に行こ!見に行こ!」
 次郎吉はすでに有名人で野次馬が大勢押し寄せたため、引き回しの際にはいい着物を着せられ、口紅まで塗ってもらったという。
「あれが次郎吉か」
「存外小柄だな」
「小柄だから身軽に盗みまくれたんだよ」
「いい顔してるじゃないか〜」
 やじ馬に交じって、次郎吉の姉も来ていた。
「次郎吉! ここよっ!」
 気づいた次郎吉がニヤッと笑った。
「お兄ちゃん!」
 その隣に妹も来ていた。
「お兄ちゃんは悪くない! お兄ちゃんは悪なんかじゃないっ!」
 妹は泣いていた。
(泣くことはない!)
 次郎吉はうれしかった。目頭が熱くなり、こぼれまいと天を仰いだ。
 彼は思い出した。
(そうだ……。俺が盗みを始めたのは、妹を守るためだった……。俺は妹を守り切った! 泣くことはない……。俺はいいことをした! 何ら恥じることも悔いることもないのだっ!)

 次郎吉は満足して死んでいった。
 彼は両親から勘当され、妻妾とは離婚していて、姉妹とは別に暮らしていたため、連座制は適用されなかった。
 彼の墓は両国の回向院
(えこういん。東京都墨田区)にある。

[2024年3月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 回向院の墓碑には、なぜか「天保二年八月十八日 俗名中村次良吉之墓 教學速善居士」とあります。
※ 次郎吉の墓を削ったものをお守りにするとバクチに強くなるという逸話は信じられません。弱かったから泥棒をしていたのでしょう。
※ また、次郎吉が「どこでもするりと入った」ことから合格や金運目当てで墓参に来る人もいますが、それってどうかと思います。
※ 次郎吉の墓は小塚原回向院にもあります。
※ 委空寺
(いくうじ。愛知県蒲郡市)にも母親による墓があります。
※ なぜか慈眼寺
(じげんじ。兵庫県三木市)にもあります。
※ 西竜寺
(さいりゅうじ。愛媛県松山市)には供養塔があります。
※ 那珂門前町
(岐阜県各務原市)には「ねずみ小僧次郎吉の碑」があります。
※ 二宮尊徳の最初の妻・中島きのは、次郎吉の元カノだったとも伝えられています
(「忖度味」参照)
※ 次郎吉が有名になったのは、二世松林伯円が講談『緑林(みどりがばやし)五漢録―鼠小僧』で取り上げ、これをもとに河竹黙阿弥が歌舞伎『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』を脚色してからです。

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