1.過熱!南北朝正閏論争!! | ||||||||||||||
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日本には二つの王朝が並立していた時代があった。
いわずと知れた南北朝時代である。
その発端は持明院統と大覚寺統の皇位継承争いにあることはすでに述べた(「刺客味」参照)。
ただ、当初は両統交互に皇位を譲り合っていたのだが、悪党連合の総領・後醍醐天皇によってその慣例はぶっ壊され、南北両朝が並立することになったのである(「窮地味」参照)。
こうして南北両朝は、それぞれの正当性を主張するようになった。
これが「南北朝正閏論争」の始まりである。
北朝は主張した。
「北朝は京都を制圧している。力も勝っている。北朝が正統だ!」
南朝は主張した。
「何を抜かす。皇位の象徴・三種の神器は南朝にある。南朝が正統だ!」
明徳三年・元中九年(1392)、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に神器を渡して譲位、ここに南北朝は一つになった(南北朝の合体)。
当初は両統交互に皇位に就くはずであったが、室町幕府によって反故(ほご)にされ、以後は北朝の天皇が代々皇位を継承するようになったのである。
「つまり、北朝が正統、南朝が偽朝ということだ。まさか天皇になれなくなった皇統を正統だとはいえまーい」
これが室町時代の一般的見解であった。
が、室町幕府が衰退し、『神皇正統記』『太平記』など南朝擁護の書物が世間に流布するようになると、南朝に同情する人が出てくるようになる。
で、江戸時代になると、その立場は逆転した。
「北朝のほうこそ南朝から皇位を奪った偽朝だ。真の正統は南朝だ!」
なにしろ将軍家徳川家は、後醍醐天皇の忠臣・新田義貞の子孫を自称している。江戸幕府がかつての主君の正当性を主張するのは当然であった。
故に徳川光圀・新井白石・山鹿素行・林鵞峰ら江戸時代の学者たちは、ほとんどが南朝正統を支持したのである。
が、幕末になると、これを利用する人々が現れるようになる。
いわゆる「尊皇攘夷論者」である。
「鎌倉幕府も江戸幕府も、朝廷から権力を奪った武家政権ではないか!」
「足利尊氏も徳川家康も何の変わりがあろうかっ!」
「今上天皇陛下(明治天皇)は後醍醐天皇の再来だ! 後醍醐天皇のように幕府を打ち倒すのだ!」
こうして明治天皇を担いだ薩摩藩・長州藩などによって江戸幕府は滅ぼされ、明治維新を迎えるのであった。