7.諸国放浪 | ||||||||||||||
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それから四十年が過ぎた。
この頃にはもう千代の子孫は死に絶え、誰も彼女のことを知る者はいなくなっていた。
「もうここにいても仕方ないわね」
千代は尼になって諸国放浪の旅に出かけた。熊野比丘尼として熊野信仰を布教したのであろう(「2004年8月号 熊野味」参照)。
その折、諸所にツバキやスギ、マツ、エノキ、ツキなど、いろいろな木を植えて回った。
「人はすぐ死ぬけど、木は長生きするからね」
今でも隠岐の玉若酢命(たまわかすひめのみこと)神社(島根県隠岐の島町)などに千代の手植えの木が残っているという(年代が合わないが、気にしなーい)。
八百比丘尼 PROFILE | |
【生没年】 | 654?-1453? |
【別 名】 | 千代・八重・八百姫・玉椿姫 千年比丘尼・お里・白比丘尼など |
【出 身】 | 若狭国小浜(福井県小浜市)ほか異説多数 |
【本 拠】 | 若狭国ほか諸国放浪 |
【職 業】 | 熊野比丘尼?植木屋? |
【 父 】 | 高橋権太夫(秦道満・秦道勝・秦道春などの異説あり) |
【 夫 】 | 何人か存在 |
【子 孫】 | 何人か存在 |
【没 地】 | 空院寺八百比丘尼入定岩窟(小浜市)ほか |
【霊 地】 | 神明神社境内社八百姫神社(小浜市)ほか |
こうして十年、百年、二百年、五百年と、恐ろしく長い年月が流れた。
その間、為政者は概して天皇家、藤原氏、治天の君(院政)、桓武平氏、清和源氏、北条氏、足利氏と移り変わったが、千代だけはずっとずっと年を取らず、いつまでも十五、六歳にしか見えない美少女姿のままであった。
その間、千代は多くの人に出会い、別れた。
数え切れないほどの恋もしたが、すべてむなしかった。
(どうせあんたはすぐ死ぬんだわ)
老人を見ても、若者を見ても、千代の目から見れば大差はなかった。
彼女から見れば、数年も数十年も五十歩百歩なのであった。
有名人にも会った。
平安時代末期には、陸奥平泉(岩手県平泉町)へ落ちていく途中の源義経一行と会ったという。
また、晩年の文安六年(1449)五月には、京都に上洛した。
「約八百歳の美少女老婆が来はったんやてー!」
「どんなんや、それー!」
「見に行こー!見に行こー!」
大勢の見物人が押しかけ、見物料まで取ったことが『康富記(やすとみき。中原康富著)』や『臥雲日件録(がうんにっけんろく。瑞渓周鳳日記)』に記されている。
千代は八百歳ジャストで故郷へ帰り、海辺の洞窟で入定(他界)したという。空印寺には彼女が最期を迎えた「八百比丘尼入定岩窟」が現存している。
それにしても疑問がある。
不老不死のはずの彼女が、本当に死んだのであろうか?
あるいは彼女は現在でもどこかで生きているのではあるまいか?
案外、そこらへんでブラブラしているかもしれない。
「ちょっと、そこの女子!今何時だと思っているの!早く家に帰らないと補導するよっ!あんた、どう見てもまだ高校生だよねー?年はいくつ?」
「いくつに見える〜?へっへっへ!」
[2008年4月末日執筆]
参考文献はコチラ
※ 八百比丘尼の伝説は若狭が有名ですが、中部・関東・中国・四国地方など全国各地に存在します。平成十年(1998)には栃木県西方町で「全国八百比丘尼サミット」なるものまで開かれました。
※ 八百比丘尼の名前は、この物語では千代としましたが、ほかにも八重、お里、八百姫、玉椿姫などの説があります。
※ 八百比丘尼の父親にしても、高橋権太夫のほかに、秦道満、秦道勝、秦道春などの説があります。
※ 人魚の肉を得た場所にしても、竜宮城や浜辺、山中という説などがあります。
※ 八百比丘尼が生まれた年代にしても、飛鳥時代ではなく、鎌倉時代という説もあります。
※ 八百比丘尼が食べたものにしても、人魚の肉ではなく血だったという説や、秘薬や人肉やアワビやほかの貝だったという説もあります。
※ 八百比丘尼の死因にしても、入定のほかに橋で転んで死んだというものもあります。