5.それから

ホーム>バックナンバー2023>令和五年7月号(通算261号)裏切味 守山崩れ5.それから

ワグネル反乱
1 吾輩は猫である
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5.それから

「やれやれ。国政をお子様に任せたわしがバカだった。やはり、松平の当主はわしがやるしかない」
 守山崩れの後、松平信定が三河の実権を握った。
 そのため、松平清康の遺児・松平仙千代
(後の広忠)は岡崎城に居づらくなった。
「信定が仙千代さまの暗殺を企てているそうな」
 そんなうわさもあり、阿部定吉は仙千代を連れて他国へ脱出することにした。
「どこ行くの?」
「それがしの知り合いのところです」
 仙千代は叔母婿・吉良持広
(きらもちひろ)のつてで伊勢神戸(かんべ。三重県鈴鹿市)でかくまわれ、この地で元服して松平次郎三郎広忠と名乗ったが、天文八年(1539)九月に持広が死ぬと、駿河遠江の太守になりたての今川義元(「最強味」参照)を頼ることにした。
 初め義元は広忠をかくまうことに乗り気でなかったかもしれない。
「暗愚で残忍な暴君の遺児をかくまったところで何の役に立つであろうか?」
 それでも軍師・太原崇孚
(たいげんすうふ。雪斎)の助言で気が変わったのかもしれない。
「優秀で温厚な名君の遺児ということにしてしまえば、役に立つのではありませぬかな?」
「それな!」
 後に義元は広忠を西側の盾として大いに活用し、竹千代
(たけちよ。後の徳川家康)という前途有望な人質も手に入れるのであった。

[2023年6月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 松平清康の父・松平信忠は、『三河物語』でも暗愚で残忍だったとされています。
※ 阿部正豊は父の阿部定吉が殺されると勘違いして松平清康を殺害したとされていますが、どうにも不自然ですので、この物語では勘違いしてないことにしました。
※ 守山城主は織田信光ではなく、松平信定という説がありますが考えにくいです。あるいは織田信定(信秀の父)の誤りかもしれません。

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