1.大浦為信vs大浦三老 | ||||||||||||||
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津軽為信 PROFILE | |
【生没年】 | 1550-1607 |
【別 名】 | 扇・大浦為信・南部右京亮・藤原為信 ・平蔵?・武田為信?・久慈為信? |
【出 身】 | 陸奥赤石城(青森県鯵ヶ沢町) or陸奥久慈城(岩手県久慈市) |
【本 拠】 | 陸奥大浦城(青森県弘前市)→陸奥堀越城(弘前市) |
【職 業】 | 戦国大名・大名(陸奥弘前初代藩主) |
【役 職】 | 右京亮→右京大夫 |
【位 階】 | 従四位下 |
【 父 】 | 武田守信or久慈治義 |
【 母 】 | 武田重信の女 |
【義 父】 | 大浦為則・近衛前久 |
【 妻 】 | 大浦戌姫・栄源院 |
【 子 】 | 津軽信建・信堅・信枚 ・津軽建広室・兼子盛久室 |
【主 君】 | 南部晴政・豊臣秀吉・徳川家康ら |
【 師 】 | 格翁 |
【部 下】 | 沼田祐光・兼平綱則・森岡信元 ・小笠原信清・八木橋備中・千徳政氏 ・乳井建清・石田重成・服部康成ら |
【盟 友】 | 最上義光・石田三成ら |
【仇 敵】 | 南部信直・石川高信・滝本重行・北畠顕村ら |
【墓 地】 | 革秀寺(弘前市) |
【霊 地】 | 高照神社・長勝寺(弘前市) |
三日月の丸くなるまで南部領
戦国時代、とてつもない句を詠まれるほどの大版図を最果ての地に築き上げた戦国大名があった。
本州最北にありながら、なぜか真逆の苗字を持つ南部氏である。
「なぜか」と書いたが、理由は分かっている。
平安時代末期に、清和源氏源義光(みなもとのよしみつ)の玄孫(やしゃご)光行(みつゆき)が甲斐南部(山梨県南部町)を本拠にしたのが由来である(「南部氏系図」参照)。
南北朝時代、光行の玄孫・師行(もろゆき)が南朝方の武将として活躍し、陸奥守・北畠顕家(きたばたけあきいえ)から「北奥の奉行」に任ぜられ、陸奥糖部(ぬかのぶ。青森県八戸市・むつ市・十和田市・三沢市・岩手県二戸市・久慈市ほか。当時の日本最大の郡)を本拠にして権勢を振るった。
戦国時代になると、陸奥津軽(青森県弘前市ほか)の豪族・安東(あんとう・あんどう)氏を追い、陸奥志和(しわ。紫波町・矢巾町)の名族・斯波(しば)氏などを滅ぼし、現在でいう青森県全域・岩手県大半・秋田県北東部に及ぶ大版図を成立させたのである。
ところが、領地が広くなってくると、隅々まで目が届かなくなってくるものである。家臣が増えれば増えるほど、反乱分子もまた増えた。
「南部の栄華は終わった。ヤツらはすでに腐っている」
大浦為信(おおうらためのぶ。後の津軽為信)もまた、反乱分子の一人であった。表向きは南部氏に仕えながら、ひそかに独立をたくらんでいた。
「父は南部の内乱で戦死した。南部が父を殺したんだ。おれにとって南部は主君ではない。憎きカタキよ」
為信の父は武田守信(たけだもりのぶ)といった。
守信の兄は陸奥大浦(おおうら。弘前市)城主・大浦為則(おおうらためのり)であるが、陸奥堀越(ほりこし。弘前市)城主・武田重信(しげのぶ)の娘と結婚して養子になったのである(「大浦氏系図」参照)。
しかし、守信は永禄四年(1561)に南部一族の内乱に巻き込まれて戦死してしまった。
そのため為信は伯父(おじ)為則に引き取られ、その娘・戌姫(いぬひめ。阿保良姫)と結婚して養子になった。
一説に、為信の実父は陸奥久慈(くじ。久慈市)城主・久慈治義(はるよし)とも伝えられている。
いずれにせよ、久慈氏も大浦氏も南部氏の支流とされているので、為信が南部一族であることは変わらないことになる(ほかに藤原鎌足や藤原秀郷や藤原基衡の子孫説などもある)。
が、私は大浦氏について南部氏の支流ではなく、武田氏の支流だと考えている。つまり、蝦夷松前(まつまえ。北海道松前町)藩主・松前氏(蠣崎氏の後身。「北方味」参照)と同じく、若狭武田氏の支流だと推測しているのである(「武田氏系図」参照)。
戦国時代の大浦氏と若狭武田氏の系譜には一致する点がある。
大浦(南部)元信━光信━盛信━政信 | ┳ | 為則━女(為信室) |
┗ | 守信━為信 |
武田元信 | ┳ | 元光━信豊━義統━元明 |
┗ | 盛信━政信 |
見比べればお分かりであろう。
元信━(光信)━盛信━政信
両氏にはなぜか三代に渡って同じ名前が重複しているのである。
これは偶然であろうか?
いや、私はこれらを同一人物だと考えるのである。
大浦氏が若狭武田氏の子孫であれば、軍師とされる沼田祐光(ぬまたすけみつ。面松)が、なぜ為信に仕えたかというナゾも解決する。祐光の父は若狭熊川(くまかわ。福井県若狭町)城主・沼田統兼(むねかね)ともいわれているので、旧主のつてで仕官したわけであろう。
また、大浦政信(為信の祖父)には関白近衛尚通(このえひさみち)の隠し子説があるが、これも京都に近い若狭での話とすれば、あながちありえない話でもあるまい(「近衛家系図」参照)。
ではなぜ、大浦氏は南部氏の支流とされたのであろうか?
理由は、武田氏も南部氏も甲斐発祥の清和源氏(甲斐源氏)であり、共に源義光を祖とする同族のため、混同されたのではあるまいか?
永禄十年(1567)、為信は戌姫と結婚した同年に、養父為則が没したため、大浦城主を継いだという。
為信が希代の梟雄(きょうゆう)であるだけに、ここにも「疑惑」を挟む余地があるが、あえて何も言わないでおく。
さて、大浦城主になった為信は、すぐに配下の家来千人を集めた。
「今から軍事演習を行う」
家来たちはぶうたれた。
「えー、いきなりなんだよ〜」
「ぶうたれるな!戦とは、いつ起こるかわからぬものだ!分かったら今すぐ野崎村(のざきむら。弘前市)を焼き打ちにしてこい!」
これには兼平綱則(かねひらつなのり)・森岡信元(もりおかのぶもと)・小笠原信清(おがさわらのぶきよ。信浄)、三人そろって大浦三老と呼ばれる為則の遺臣たちが猛反対した。
「そんな無茶苦茶な!野崎村には百姓たちがいます!」
「通告もせず焼き打ちすれば、罪なき彼らに大勢の犠牲者が出ることでしょう!」
「敵国の民ならともかく、自国の民になんてひどい仕打ちを!」
「うるさい!何が悪い?」
為信は許さなかった。
「これは奇襲の演習だ!奇襲とは、予告もナシに攻めかかることだ!どこの誰が奇襲の前に通告などするものか!そもそも戦とは罪なき者が死ぬものだ!厳命だ!今すぐ焼き打ちにしろ!野崎村を灰燼(かいじん)にしてきやがれっ!」
大浦三老は為信の剣幕にたじろいだ。
何しろ為信は身長百八十センチを超す大男である。また、『三国志』に登場する豪傑・関羽(かんう)ファンで、彼をまねたボーボーヒゲを蓄えていたという。三人からすれば、まるで大鬼が怒っているように見えたであろう。
「それとも、やれぬと申すのか?生きているおれの家来になるよりも、死んだ養父為則の家来になりたいと申すのか?それがよければ、今すぐあの世へ送ってやってもいいぞっ!」
為信はバッと抜刀した。
「そんな〜」
大浦三老は追い詰められた。
(何というとんでもない暴君なんだ!)
心中ではそう思いながら、関羽ばりの強面の主君にすごまれては反抗できるはずがなかった。
「やります〜、やります〜」
「やりゃいいんでしょ〜」
「えーい、ヤケクソだぁー!」
大浦三老は涙をのんで焼き打ちを決行した。
「よくやった!」
為信は帰ってきた大浦三老を上機嫌でほめたたえたが、彼らは元気なかった。
為信が聞いた。
「民はすでに誰もいなかったであろう?」
大浦三老はハッとした。
「そういえば……」
「人っ子ひとり……」
「洗濯物一つ干してなかったような……」
為信が明かした。
「すべての民には事前に知らせて避難させておいた」
「え?」
「実は今回の件はお前たちを試しただけなのだ。つまり、お前たちを疑ったわけだが、こうするほかなかったのだ」
「なんでまた〜?」
「知ってのとおり、おれは先代為則の婿養子だ。そのため、先代の遺臣であるお前たちが、いざという時に本当におれに従ってくれるかどうかが不安であった。が、これでその不安は払拭(ふっしょく)された。いずれおれは南部から独立する。そして、津軽一円を勝手に支配するつもりだ。そのときはよろしく頼むぞ」
大浦三老は安心した。納得した。顔を見合わせて笑顔になった。
「なーんだ。そうでしたか〜」
「頭い〜い。さすがに先代が見込んだ御曹司様じゃ!」
「もったいなきお言葉!我ら一同こそ、これからも末永くお願い申し上げまする!」
為信は野崎村の百姓たちに新しい家を建ててあげた。
貧乏で古い家に住んでいた彼らは喜んだという。
「おろー!おいのえ、おがったのー!」
「い、殿様じゃ」
「したはんで、しゃんべったっけな〜」