92.友愛味 基礎用語集

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明智光秀(あけちみつひで)
 (1528?-1582) 武将。足利義昭(あしかがよしあき)の紹介を機に織田信長に仕え、諸戦で活躍して近江坂本(さかもと)城主になるが、1582本能寺(ほんのうじ)の変で信長を殺害、京都・近江・美濃を制圧するも、中国攻めから取って返してきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎(やまざき)の戦で敗れ、坂本へ落ち延びる途中に土民の襲撃を受けて自殺した。

石田三成(いしだみつなり)
 
(1560-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳の戦・1590小田原攻め・朝鮮出兵などで功を立て、太閤検地などに手腕を発揮、1595近江佐和山城主となるが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に敗れて処刑された。友愛味
花見味 変節味

今川義元(いまがわよしもと)
 (1519-1560) 武将。駿河等守護。今川氏親(うじちか)の子。長兄氏輝(うじてる)死後、1536花倉の乱で次兄の玄光恵探(げんこうえたん)を破って家督を継ぎ、三河の松平氏を併合して尾張東部まで領国を拡張、いち早く検地を行い、商工業振興や富国強兵に努め、1553分国法「今川仮名目録追加(いまがわかなもくろくついか)」を制定、1554善徳寺(ぜんとくじ)の会盟で、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と三国同盟を締結、後方の憂いを無くして京都に向かうが、1560桶狭間(おけはざま)の戦で尾張の織田信長(おだのぶなが)に敗死した。
最強味

上杉景勝(うえすぎかげかつ)
 (1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を破って家督となるが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

大坂(おおさか・おおざか)→大阪
 現在の大阪府大阪市。府庁所在地。戦国時代に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心に栄え、1583豊臣秀吉が大坂城を築いて発展、江戸時代には日本経済の中心として「天下の台所」と呼ばれ、明治維新後に大阪と改めた。

大坂城(おおさかじょう・おおざかじょう)→大阪城(おおさかじょう)
 大阪市中央区所在。1583〜1585石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に豊臣秀吉が築城、1615大坂夏の陣で落城炎上するが、まもなく再建され、将軍が城主とされ、大坂城代(じょうだい)が置かれた。天守閣は1665落雷で焼失したが、1931再建された。
籠城味

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味 銃器味

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。

関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)
 豊臣秀吉没後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣政権を守ろうする石田三成(いしだみつなり)が美濃の関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で対決した戦い。1598秀吉が没し、1599前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、家康の勢力は拡大、1600反抗的な態度を取った上杉景勝(うえすぎかげかつ)攻め(会津攻め)に向かった。一方、三成は家康の留守を突いて挙兵、毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川秀秋(こばやかわひであき)・小西行長(こにしゆきなが)らを味方につけ、京都の伏見城(京都市伏見区)等を攻略、美濃の大垣城(岐阜県大垣市)に入った。一方、家康は三成を討つため小山(おやま。栃木県小山市)で引き返し、福島正則(ふくしままさのり)・池田輝政(いけだてるまさ)を西上させ、織田秀信(おだひでのぶ)の守る岐阜城等を陥落させた。両軍は関ヶ原で激突するが、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りや、吉川広家(きっかわひろいえ)の内応静観などで三成方は壊滅、三成は行長らとともに京都で処刑された。変節味4
友愛味6

摂関家(せっかんけ)
 摂政・関白を独占して世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。甲斐の武田(たけだ)氏・駿河の今川(いまがわ)氏・周防の大内(おおうち)氏・・豊後の大友(おおとも)氏・薩摩の島津(しまづ)氏など守護(しゅご)大名から移行したものや、越後の上杉(うえすぎ)氏・出雲の尼子(あまこ・あまご)氏・阿波の三好(みよし)氏・越前の朝倉(あさくら)氏・尾張の織田(おだ)氏など守護代ほかから台頭したものや、安芸の毛利(もうり)氏・土佐の長宗我部(ちょうそかべ。長曽我部)氏・北近江の浅井(あざい・あさい)氏など国人(こくじん)などから台頭したものや、相模の北条(ほうじょう)氏・美濃の斎藤(さいとう)氏・大和の松永(まつなが)氏など陪臣(ばいしん)その他から成り上がったものもある。

鉄砲(てっぽう)=火縄銃(ひなわじゅう)≦種子島(たねがしま)
 火薬の爆発力によって弾丸を発射する武器。1543ポルトガル人によって種子島に伝来。和泉(いずみ)の堺(さかい)・紀伊(きい)の根来(ねごろ)・近江(おうみ)の国友(くにとも)などの鉄砲鍛治(かじ)が製造し、戦国大名の間で普及した。織田信長が三千丁(千丁とも)の鉄砲を使用して長篠の戦(ながしののたたかい)で勝利したことは有名。
銃器味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味変化味 花見味 変節味

豊臣秀頼(とよとみひでより)
 (1593-1615) 武将。秀吉の子。母は淀殿(よどどの。淀君)。1600関ヶ原の戦により天下人後継者から一大名に転落、徳川秀忠(ひでただ)の娘・千姫(せんひめ)と結婚するが、1615方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件から起こった大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で徳川家康に敗れ、淀殿とともに自殺した。
花見味 籠城味

南朝(なんちょう)
 (1336-1392) 1336足利尊氏(あしかがたかうじ)によって京都を追われた大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐(ごだいご)天皇が大和の吉野(よしの。奈良県吉野町)に立てた朝廷。後醍醐・後村上(ごむらかみ)・長慶(ちょうけい)・後亀山(ごかめやま)天皇と四代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体(南北朝合一)で消滅。
総理味

鳩山一郎(はとやまいちろう)
 (1883-1959) 政治家。首相(在職1954-1956)。和夫(かずお)の子。母は春子(はるこ)。1945日本自由党を結成するが、1946公職追放にあって一時下野、1954日本民主党総裁として首相に就任、1955保守合同により自由民主党初代総裁となり、1956日ソ共同宣言調印・国際連合加盟を実現した。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)←中臣鎌足(なかとみのかまたり)←中臣鎌子(かまこ)
 (614-669)公卿。内臣(うちつおみ・ないしん)。藤原氏の祖。中臣御食子(みけこ)の子。舒明(じょめい)天皇の代に神祗伯(じんぎはく)を辞退して隠棲、中大兄皇子(天智天皇)に近づき、645蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺、蘇我蝦夷(えみし)を滅ぼし、孝徳(こうとく)天皇を擁立、中大兄皇子を皇太子に立て、大化の改新で内臣(うちつおみ・ないしん)に就任、近江令編集に関わり、死の直前に藤原姓と大織冠(たいしょくかん)を受けた。

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
 (?-?)武将。魚名(うおな)の子孫。村雄(むらお)の子。小山氏などの祖。下野国を本拠に勢力を拡大するが、916下野国司に訴えられて流刑にされ、940平貞盛(たいらのさだもり)とともに平将門(たいらのまさかど)の乱を平定、下野守に任ぜられた。
生首味

藤原基衡(ふじわらのもとひら)
 (?-1157?)武将。清衡(きよひら)の子。父の没後、弟・惟常(これつね)を破って家督を継承し、陸奥平泉を本拠に奥州藤原氏の全盛期を展開、1153藤原頼長(よりなが)と対立し、毛越寺(もうつじ・もうつうじ)を建立した。

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

本領安堵(ほんりょうあんど)
 鎌倉〜戦国時代に将軍などが自分に忠誠を誓った武士に対して所領の所有権を承認したこと。

前田利家(まえだとしいえ)
 (1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児秀頼の後見役を務めた。 

和歌(わか)
 日本固有の詩歌。古代歌謡の流れを汲む五音・七音を基調とする短歌・長歌・旋頭歌などの総称。『万葉集(まんようしゅう)』で確立され、平安時代以降は主に短歌をさすようになった。

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