3.合流!徳川家康!!

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この愚かなる銃社会へ
1.密会!今川氏真!!
2.謀略!佐久間信盛!!
3.合流!徳川家康!!
4.主張!跡部勝資!!
5.奇襲!酒井忠次!!
6.粉砕!武田勝頼!!

 天正三年(1575)五月十三日、織田信長は岐阜城を出陣、尾張清洲(きよす。清須。愛知県清須市)城にいたその子・織田信忠(のぶただ)も参陣し、熱田神宮(あつたじんぐう。名古屋市熱田区)に宿陣した。織田軍の総勢は三万。
 十四日、信長は熱田神宮別宮・八剣宮
(はっけんぐう)の修築を命じた後、東方へ進軍、三河岡崎(おかざき。愛知県岡崎市)城で徳川家康と合流した。
「お待ちしておりました」
 家康は満面の笑顔で信長を迎えた。
 家康の居城は遠江浜松
(はままつ。浜松市中区)城であるが、武田軍の三河侵攻に備え、息子・信康のいる旧居城に戻っていたのである。
 また、岡崎のゴタゴタに対処するためでもあった。
 信長がそのことを聞いてきた。
「裏切り者は処断したか?」
 これ以前、岡崎の代官を務めていた大賀弥四郎
(おおがやしろう。大岡弥四郎)なる者が武田に内通し、岡崎城を乗っ取る計画を立てていた。実は今回の武田勝頼の出兵は、大賀の謀反を後援するためであった。
 家康は答えた。
「首謀者の大賀はノコギリ挽
(び)きの極刑に処しました」
 信長は首をかしげた。
「はて? 大賀は首謀者であろうか?」
 信長はジロリと信康を見た。
 信康は思わずうつむいた。
 家康は凍りついた。
 信康の正妻は信長の娘・徳姫(とくひめ。五徳。岡崎殿。見星院)である。彼女は夫の近況をいちいち父に知らせていた。
 信長は続けた。
「醜き芽はやがて醜き花となる。殺してからは後悔できるが、殺されてからは後悔もできぬぞ。疑わしきは罰するがよい」
「……」

 後年、信長を恐れた家康は、自らの手で妻子を殺めるハメになるが、それは天正七年(1579)のことである。

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