4.尾張川の戦

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WBC初代王者・日本の栄光
1.史上最大の土地長者 
2.後鳥羽上皇御謀反 
3.北条泰時出陣 
4.尾張川の戦
5.宇治川の戦
6.君子、豹変す

 高陽院(かやのいん。京都市上京区? 上皇の御所の一つ)後鳥羽上皇は待ち焦がれていた。
「押松丸
(おしまつまる)はまだか?」
 押松丸とは藤原秀康の従者で、敵将・三浦義村に遣わした使者である。
「押松丸、帰ってきました!」
 六月一日のことである。
 彼が帰ってきたということは吉報に違いなかった。
 後鳥羽上皇ははしゃいだ。
「そうか! 義村は義時を討ち果たしたか! 押松丸は義時の首を持って参ったか!」

 が、押松丸が持ってきたのは衝撃的な事態であった。
「幕府軍、東海道東山道北陸道の三手に分かれて西上中! その数、総勢十九万騎っ!」
 後鳥羽上皇は耳を疑った。
「な、なに……。じゅーきゅーまん!?」
 後鳥羽上皇はあたふたした。
「おかしい。朕は院宣を出したはずだ。宣旨も届いているはずだ。光親。確かに院宣は発行したのか?」
 葉室光親は答えた。
「確かに」
「なぜ鎌倉御家人たちは朕の命令に従わぬ!」
御家人たちの主は院ではなく、鎌倉殿ということなのでしょう」
「鎌倉殿など、今の鎌倉にはいないではないかっ! もっとたくさんの院宣を東国諸将に送りつけよ!」
「ははぁー!」
 藤原秀康が言った。
「十九万はいくらなんでも大げさですよ。いても数万そこそこでしょう」
「秀康。官軍は何人いる?」
「は……、あのぉ……、こちらもそこそこおりますよっ」
 後鳥羽上皇に聞かれて困った秀康は席を立った。
「とりあえず迎撃に行って参ります。御期待ください。必ず幕府軍を撃退いたしましょう」
「頼むぞ。褒美は望みのままに与える」
「ははぁー!」

● 尾張川の戦朝廷軍陣容
守備地
(現所在地)
主な武将 兵力
大井戸の渡
(美濃加茂市)
大内惟信
・糟屋有長
・糟屋久季ら
約2,000騎
鵜沼の渡
(各務原市)
藤原親頼ら 約1,000騎
板橋の渡
(各務原市)
朝日頼清
・開田重国ら
約1,000騎
池瀬の渡
(各務原市)
土岐判官代
・関政泰ら
約1,000騎
摩免戸の渡
(各務原市)
藤原秀康
・三浦胤義
・佐々木広綱
・小野盛綱
・宗孝親ら
約10,000騎
食の渡
(岐南町)
臼井太郎入道ら 約500騎
稗島の渡
(岐南町)
小野成時
・長瀬判官代ら
約500騎
洲俣の渡
(大垣市)
藤原秀澄
・山田重忠ら
約1,000騎
市脇の渡
(羽島市)
加藤光員ら 約500騎
※ 現所在地はすべて岐阜県。

 朝廷軍は美濃尾張の国境、尾張川(現在の木曽川+長良川)を固め、北条泰時率いる幕府軍東海道方面隊及び武田信光率いる東山道方面隊を迎え撃つことにした。
 軍勢を尾張川北岸の浅瀬に帯状に配置し、渡河を阻止しようとしたのである。
 朝廷軍は総勢一万七千五百騎。その配陣は右の通り。

 六月五日、幕府軍東海道方面隊十万余騎は尾張一宮(いちのみや。愛知県一宮市)に着陣、尾張川をはさんで朝廷軍と対陣した。

「敵はすごいいるではないか」
 洲俣
(すのまた。墨俣。岐阜県大垣市)の渡を守る藤原秀澄(ひでずみ。秀康の弟)は、改めて幕府軍の数に驚いた。
東海道方面隊だけでこの数です。まだここに東山道方面隊も合流するそうですよ。そうですね。あっちのほうからやって来るでしょう」
 山田重忠
(やまだしげただ)が指差しながら言った。彼は尾張の山田荘(名古屋市)の住人なので、このあたりの地形には詳しい。
「秀澄殿。いいこと教えましょうか?」
「なんだ?」
「実は私の父は去る治承
(じしょう)の乱でここ洲俣で死んでるんですよ」
 重忠の父・重満
(しげみつ)は、治承五年(1181)三月に源行家(みなもとのゆきいえ。頼朝の叔父)軍に従軍、墨俣川の戦で平重衡(たいらのしげひら)軍に敗れて討ち死にしていた。
 秀澄は不機嫌になった。
「縁起でもないこと言うな」
「へい」

 その晩、急報が飛び込んできた。
「幕府軍東山道方面隊到着! 大井戸の渡を攻撃!」
「大内惟信
(おおうちこれのぶ)殿、あっという間に敗走ー! 大井戸の渡、突破されましたー!」
「鵜沼
(うぬま)の渡の藤原親頼(ちかより)殿も逃亡ー!」
 秀澄は舌打ちした。
「もろすぎる! 兄は大丈夫か?」

 その頃、秀康は胤義と相談し、決断を下していた。
「よし、とっとと撤退だ! 山城宇治
(うじ。京都府宇治市)近江勢多(せた。瀬田。滋賀県大津市)で防ごう!」
 こうして朝廷軍は戦闘開始早々、ほとんどが逃亡してしまったのである。

「おい。もう戦闘が始まっているではないか」
 気づいた幕府軍東海道隊が渡河した頃には、朝廷軍はもぬけの殻であった。

 わずかに重忠ほか少数だけが、
「このままでは情けなさ過ぎるー」
 と、杭瀬川
(くいせがわ。大垣市)でとどまって抗戦したが、
「やっぱり勝てない〜」
 結局、逃げ散っていった。

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