81.平城味 基礎用語集

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右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

衛士(えじ)
 古代の宮都警備員。諸国の軍団の兵士から選ばれて上京し、左・右衛士府(さ・うえじふ)や衛門府(えもんふ)に配され、宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持を担当した。律令には任期を一年と定めてあるが、実際は多年にわたった。792諸国の軍団が廃された後も公民から徴収された。

桓武天皇(かんむてんのう)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 怨霊味 ヤミ味

桓武平氏(かんむへいし)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。

畿内(五畿)・七道(きない(ごき)・しちどう)
 古代の行政区分。首都を起点にした(西海道は大宰府が起点)主要幹線道路が通っていた。以下の七つ。所属国・国数・郡数は平安中期のもの。

区分(よびかた) 所属国(島) 国・郡数
畿内(きない) 山城・大和・河内・摂津・和泉  5・53
東海道
(とうかいどう)
伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐
・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸 
15・128
東山道
(とうさんどう)
近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽 8・112
北陸道
(ほくりくどう)
若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡  7・31
山陽道
(さんようどう)
播磨・備前・美作・備中・備後・安芸・周防・長門 8・69
山陰道
(さんいんどう)
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐 8・52
南海道
(なんかいどう)
紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐 6・50
西海道
(さいかいどう)
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向
・大隅・薩摩・壱岐・対馬・(多褹・掖玖)
11・96

吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。717-735唐に留学し、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を務めたが、藤原仲麻呂の圧力で一時左遷、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師として活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室浄三(ふんやのきよみ)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

薬子の変(くすこのへん)=平城上皇の変(へいぜいじょうこうのへん)=平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変=薬子の乱
 式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)らにあおられた平城上皇(へいぜいじょうこう)が嵯峨(さが)天皇に対して起こした反乱未遂事件。809平城天皇は病気のため弟・嵯峨天皇に譲位、旧都・平城京へ移るが、仲成・薬子らにそそのかされて重祚(ちょうそ。再即位)と平城京還都を計画、810嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)・藤原冬嗣(ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に任じ、反乱計画を察知、平安京で仲成を逮捕・射殺した。一方、平城上皇は東国へ行こうとするが失敗して出家、薬子は自殺し、皇太子・高岳親王(たかおかしんのう。高丘親王とも。平城天皇皇子)は廃された。これにより式家は衰退し、北家が台頭した。
内乱味

皇后(こうごう)←大后(たいごう)
 天皇の正妻。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)の頃に称号が定着。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

光仁天皇(こうにんてんのう)←白壁王(しらかべおう)
 (709-781) 伝四十九代天皇(在位749-758,764-770)。施基(しき)親王王子。天智(てんじ・てんち)天皇の孫。聖武(しょうむ)天皇皇女・井上(いのうえ・いのえ)内親王と結婚し、大納言に昇進、770称徳(しょうとく)天皇没後に藤原永手(ふじわらのながて)・藤原百川(ももかわ)らに推されて即位し、道鏡(どうきょう)を追放、行政改革を行った。
ヤミ味

五衛府(ごえふ)=衛府=衛門府(えもんふ)+左衛士府(さえじふ)+右衛士府(うえじふ)+左兵衛府(さひょうえふ)+右兵衛府(うひょうえふ)
 古代の宮都警備隊の総称。それぞれ長官(かみ)は督、次官(すけ)は佐、判官(じょう)は大尉・少尉、主典(さかん)は大志・少志。宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持などを担当した。811に左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府となる。

国司(こくし)
 古代に諸国の政務をつかさどった地方官。現在でいう都道府県知事に相当。長官(守・かみ)・次官(介・すけ)・判官(掾・じょう)・主典(目・さかん)という四等官(しとうかん。幹部のこと)が朝廷から派遣され、国衙(こくが。国庁とも。役所のこと)に勤務し、郡司(ぐんじ)・里長(りちょう・さとおさ)らを支配した。天武天皇の頃に成立し、鎌倉時代に守護・地頭勢力に押されて衰退した。

嵯峨天皇(さがてんのう)←神野親王・賀美能親王(かみのしんのう)
 (786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、反対派の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを退け(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842その死後、承和(じょうわ)の変が起こった。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

大宰府(だざいふ)
 九州に置かれた古代の官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった。朝廷の出張所で、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた。長官は大宰師(だざいのそち)。1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。

長岡京(ながおかきょう)
 (784-794) 奈良時代末期の首都。784桓武(かんむ)天皇が遷都して造営開始。京域は京都盆地西部。785造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてから工事が進まなかった。現在、発掘が進められている。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

省 名 主な職掌
中務(なかつかさ)省 天皇の重要事務
式部(しきぶ)省 学校管理・文官人事
治部(じぶ)省 冠婚葬祭・外交
民部(みんぶ)省 民政
兵部(ひょうぶ)省 軍事・武官人事
刑部(ぎょうぶ)省 刑罰・訴訟
大蔵(おおくら)省 出納・宝物管理
宮内(くない)省 宮中庶務

八省(はっしょう)
 律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。八省の名称および担当業務は右のとおり。

藤原薬子(ふじわらのくすこ)
 (?-810) 女官。尚侍(しょうじ・ないしのかみ)。藤原種継(たねつぐ)の娘。藤原縄主(ただぬし)に嫁いで三男二女をもうけ、娘と共に皇太子時代の平城(へいぜい)天皇に近侍、一時桓武(かんむ)天皇に退けられるが、平城天皇即位後に再び接近、尚侍として後宮で権勢を誇るが、809平城天皇の譲位によって失墜、810兄・仲成(なかなり)とともに平城上皇をそそのかして反乱を企てるが、嵯峨(さが)天皇に察知されて失敗、平城京で自殺した(薬子の変)。
内乱味 平城味

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
 (737-785) 公卿。中納言。式家・宇合(うまかい)の孫。清成(きよなり)の子。桓武天皇の側近として活躍し、784造長岡宮使として長岡京造営を主導、785造営工事を指揮中に射殺された(藤原種継暗殺事件)。この事件で早良親王らが皇太子(皇太弟)を廃され、大伴家持(おおとものやかもち。当時すでに死亡)らが処罰された。菅降味 怨念味

藤原仲成(ふじわらのなかなり)
 (764-810) 公卿。参議。式家・種継(たねつぐ)の子。薬子の兄。平城(へいぜい)天皇に信任されたが、809平城天皇譲位後に薬子らとその復位を謀って嵯峨(さが)天皇と対立、捕らえられ射殺された。平城味 
内乱味

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
 (775-826) 公卿。左大臣。内麻呂(うちまろ)の子。母は百済永継(くだらのながつぐ・えいけい)。桓武天皇の皇子・良岑安世(よしみねのやすよ)は同母兄。嵯峨(さが)天皇に信頼され、810巨勢野足(こせののたり)とともに初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任、娘・順子(じゅんし)を正良親王(まさよししんのう。後の仁明天皇)に嫁がせ、821大学別曹(だいがくべっそう)・勧学院(かんがくいん)を設立して子弟を教育、820法令集『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』・勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を編纂し、北家興隆の基礎を築いた。 

藤原百川(ふじわらのももかわ)←藤原雄田麻呂(おだまろ)
 (732-779) 公卿。参議。式家・宇合(うまかい)の子。母は久米若女(くめのわかめ)。広嗣(ひろつぐ)・良継(よしつぐ)らの弟。種継(たねつぐ)の叔父。称徳(しょうとく)天皇・道鏡(どうきょう)政権で台頭し、天皇没後に藤原永手(ながて)らとともに光仁(こうにん)天皇を擁立、皇后・井上内親王と皇太子・他戸(おさべ)親王を退け、山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)の立太子に尽力した。奈良味ヤミ味 

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

平城宮(へいじょうきゅう・へいぜいきゅう)
 奈良時代の宮城(大内裏・皇居+官庁街)。平城京の北端中央にあった都城の中心区画。内裏(皇居)・朝堂(議事堂)・諸官庁からなる。

平城上皇(へいぜいじょうこう)←平城天皇←安殿親王(あてしんのう)
 (774-824) 伝五十一代天皇(在位806-809)。桓武(かんむ)天皇の皇子。嵯峨(さが)天皇・淳和(じゅん)天皇の兄。785父の皇太子になり、806父の死によって即位、観察使(かんさつし)を設置し、参議を廃して地方政治改革を行ったが、809病気のため神野親王(かみのしんのう。嵯峨天皇)に譲位、801藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(くすこ)兄妹らの勧めで復位と平城京還都を画策して失敗し、仲成は射殺され、薬子は自殺、自身は出家した(薬子の変)。怨念味怨霊味
平城味

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。

六国史(りっこくし)
 奈良〜平安時代にかけて編修された正史のこと。以下六つ。

書名
(よみかた)
成立年 巻数 (編修命令者)
編集者
編集範囲
日本書紀
(にほんしょき)
養老四年
720
30+1 (天武天皇・元明天皇ら)
舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら
神代〜持統
(-697)
続日本紀
(しょくにほんぎ)
延暦十六年
797
40 (桓武天皇)
菅野真道・藤原継縄
・秋篠安人・中科巨都雄ら
文武〜桓武
(697-791)
日本後紀
(にほんこうき)
承和七年
840
40 (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇)
藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣
・良岑安世・源常・清原夏野ら
桓武〜淳和
(792-833)
続日本後紀
(しょくにほんこうき)
貞観十一年
869
20 (文徳天皇)
藤原良房・春澄善縄
・伴善男・安野豊道ら
仁 明
(833-850)
日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)
元慶三年
879
10 (清和天皇・陽成天皇)
藤原基経・南淵年名・菅原是善
・大江音人・善淵愛成・都良香
・島田良臣ら
文 徳
(850-858)
日本三代実録
(にほんさんだいじつろく)
延喜元年
901
50 (宇多天皇・醍醐天皇)
源能有・菅原道真・藤原時平
・大蔵善行・三統理平ら
清和〜光孝
(858-887)

令外官(りょうげのかん)
 奈良〜平安時代に新設された律令に規定されていない役所や役職。摂政・関白・内大臣・中納言・参議・蔵人・中衛府・検非違使など。

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