1.エッチ秀秋 〜 超お坊ちゃま

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東京遷都の功労者・小早川秀秋
1.エッチ秀秋 〜 超お坊ちゃま
2.用ナシ秀秋 〜 小早川家の養子
3.ピンチ秀秋 〜 慶長の役
4.どっち秀秋 〜 関ヶ原の戦
5.あああ秀秋 〜 殿様ご乱心
小早川秀秋 PROFILE
【生没年】 1582-1602
【別 名】 木下辰之助・羽柴秀俊・羽柴金吾
・小早川秀詮
【出 身】 近江国長浜(滋賀県長浜市)
【本 拠】 丹波亀山城(京都府亀岡市)
→備後三原城(広島県三原市)
→筑前名島城(福岡市東区)
→備前岡山城(岡山県岡山市)
【職 業】 武将・大名・公卿
【役 職】 権中納言
【位 階】 従三位
【 父 】 木下家定(豊臣秀吉義兄)
【 母 】 杉原家次女
【養 父】 豊臣秀吉→小早川隆景
【養 母】 木下おね(高台院)
【 妻 】 毛利輝元養女
【兄 弟】 木下勝俊(長嘯子)・利房・延俊
・俊定・秀規・宗蓮
【義兄弟】 豊臣秀次・豊臣鶴松・豊臣秀頼
・宇喜多秀家・智仁親王・結城秀康
・羽柴秀勝
【 子 】 ナシ
【部 下】 平岡頼勝・稲葉正成・杉原紀伊
・稲葉通政ら
【墓 地】 本行院(岡山県岡山市)
・瑞雲院(京都市)

 木下家定(きのしたいえさだ)は、豊臣秀吉の正室・おね(北政所・高台院のこと。ねね・寧子・吉子とも)の兄である。

 パッとしない貧乏武将だったこの男は、義弟の躍進に伴って出世、従三位・中納言(ちゅうなごん)に昇り、播磨姫路(ひめじ。兵庫県姫路市)二万五千石を治める大名となった(「怪談味」参照)

 秀秋は家定の五男として、天正十年(1582)に近江長浜(ながはま。滋賀県長浜市)城下で生まれた。
 幼名は木下辰之助
(たつのすけ)、次いで羽柴秀俊(はしばひでとし)、晩年は小早川秀詮(ひであき)といったが、以下小早川秀秋で統一する。

 この年、天下を目指していた織田信長は、部下の明智光秀に討たれ(本能寺の変)光秀もまた秀吉に討たれた(山崎の戦)
 その後、秀吉はライバル柴田勝家を滅ぼし
(賤ヶ岳の戦)摂津大坂城を築いて関白太政大臣に就任、東海の強敵・徳川家康を丸め込み(小牧・長久手の戦)、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか。長曽我部元親)、九州の島津義久(しまづよしひさ)、東北の伊達政宗ら、関東の北条氏政(うじまさ)・北条氏直(うじなお)父子を制圧、天正十八年(1590)に全国を統一して名実共に天下人に昇り詰めたのである。

 ただ、秀吉には五十を過ぎても、実子がなかった(秀勝なる実子があったという説もある)
「こんなにあっちこっちでがんばっておるのに……」
 そのため彼は、親族や貴人の子供を物色、うち何人かを養子や猶子
(ゆうし。準養子)にした。
 秀次
(ひでつぐ。姉ともの子)秀家・秀康(ひでやす。家康の子)・智仁親王(としひとしんのう。誠仁親王の王子)らである。
 妻の兄で五男坊だった秀秋も、こうして秀吉に引き抜かれたわけである。

 天正十七年(1589)、秀吉に待望の長男・豊臣鶴松(つるまつ)が誕生したが、天正十九年(1591)、わずか数え三歳で死んでしまった。
「うわーん! 鶴松よー!」
 秀吉は悲しんだ。泣きわめいた。
 亡き子のために寺を造った。
 面影をしのぶために木像を作らせた。
 絵も描かせた。
 和歌も作った。

   亡き人の形見になみだ残しおきて行へ知らずも消えおつるかな

 歌の師・細川幽斎(ほそかわゆうさい。細川藤孝)にそれを見せて、共に泣いた。悲しみは募る一方であった。

「そうだ! を攻めよう!」
 秀吉は悲しみを紛らわせるためか、とんでもないことを思い付くと、養子秀次に関白職を譲り、征討準備に取り掛かった。
「やっぱり、オレって後継ぎ?」
 秀次はひそかに喜んだ。

 秀秋もまた、わずか十歳にして参議に任官、右衛門督(うえもんのかみ)を兼ね、丹波亀山(かめやま。京都府亀岡市)十万石の領主になった。
 翌文禄元年(1592)には従三位・権中納言に進み、丹波中納言または金吾
(きんご)中納言と呼ばれるようになった。
 女たちは秀秋を潜め見て言った。
「あれが太閤
(前関白)様の御養子様よ」
「十歳にしてお殿様になられた金吾ぼっちゃま」
「将来は天下人になる可能性もある、今イチオシの超ボンボン」
「よし。今のうちにツバ付けとこ」
 玉の輿
(こし)をもくろむ欲深女たちは秀秋に群がった。女の武器を駆使して彼と何とかねんごろになろうと試みた。

 お色気攻撃をそこら中で食らい続けた秀秋は早熟だった。十二歳になった頃には、自分から女風呂や女の着替えをのぞいて楽しむようになった。
「秀秋様は女好きだそうな」
「のぞきに凝っているそうな」
「あの年にして、すでに目覚めているそうな」
 うわさが広まると、出世をもくろむ欲深男たちも秀秋を取り巻き、そこらの美女をかき集めてきて献上するようになった。
「金吾様。こちらをどうぞ」
「これなんかも」
「まだ、あちらにも。そちらにも」
 秀秋は喜んだ。
「そんなー。何もくれって言ってないのにー。でも、くれるもんは、ぜーんぶもらっておこう。キャハハハ! ヒーッヒッヒッ!」

 秀秋は笑い上戸だった。
 ちょっとしたことでも笑い、笑うとなかなか止まらなかった。
 つられて周りの者が笑うと、その顔がおかしくて笑い、腹が痛くなるのもおもしろく、呼吸が苦しくなることも痛快で、いつまでもいつまでも笑い続けた。

 養母おねは嘆いた。
「なんて笑い声なの。あんなのを人が聞いたら、アホと思われるわ。それにあの色好みといったら、何? 異常ですよ! あなた以上ですよ!」
 秀吉はなだめた。
「アホでもよいではないか。亡き信長様も幼少の頃は『うつけもの
(いわゆるバカ)』といわれておったのじゃ。アホ呼ばわりされるのは、将来大物になる前兆なのかも知れん。それにスケベこそ子孫繁栄の大本。これで豊臣家も安泰じゃ」
「まだ早すぎますって。秀秋は十二ですよ。それに、数が多くても不発ばかりの方もおられますし」
「うるさいのー」
 秀秋は、生涯子を成すことはなかった。

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