24.変節味 基礎用語集! | ||||||||||||||
●明智光秀(あけちみつひで)
(1528?-1582) 武将。足利義昭(あしかがよしあき)の紹介を機に織田信長に仕え、諸戦で活躍して近江坂本(さかもと)城主になるが、1582本能寺(ほんのうじ)の変で信長を殺害、京都・近江・美濃を制圧するも、中国攻めから取って返してきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎(やまざき)の戦で敗れ、坂本へ落ち延びる途中に土民の襲撃を受けて落命した。
●足利尊氏(あしかがたかうじ)・足利高氏
(1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後、鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武(けんむ)の親政(しんせい)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦いで新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府、後醍醐天皇の開いた南朝と戦い、1339後醍醐天皇が没すると、夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで弟・足利直義(ただよし)とともに天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では、執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義とも交戦した。
●石田三成(いしだみつなり)
(1560-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳の戦・1590小田原攻め・朝鮮出兵などで功を立て、太閤検地などに手腕を発揮、1595近江佐和山城主となるが、1600関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れて処刑された。
●院政(いんせい)
上皇(譲位した天皇)や法皇(出家した天皇)が実質的に国政を行う形態。1086白河(しらかわ)上皇が初めて行い、1840光格(こうかく)上皇が没するまで断続的に行われたが、承久(じょうきゅう)の乱以降の院政は形式的である。
●上杉景勝(うえすぎかげかつ)
(1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を破って家督となるが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦いで徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。
●宇喜多秀家・浮田秀家(うきたひでいえ)
(1572-1655) 武将。大名。大老。直家の子。 豊臣秀吉の養子となり、1581備前岡山を領有、1585四国・1587九州・1590小田原攻めに従い、1592-1596文禄・1697-1598慶長の役で活躍、五大老に列したが、1600関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗れて八丈島(はちじょうじま)に島流しにされた。
●宇多天皇(うだてんのう)・法皇(ほうおう)・源定省(みなもとのさだみ)
(867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴうのごゆいかい)』を残した。
●江戸城(えどじょう)
東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営。長禄元年(1457)に太田道灌(おおたどうかん)が初めて築城。天正十八年(1590)に徳川家康(とくがわいえやす)が入城して将軍在所となり、明治元年(1868)に明治天皇が入城して皇居となる。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上、以後、再建されなかった。
●延久(えんきゅう)の荘園整理令(しょうえんせいりれい)
1069後三条(ごさんじょう)天皇が発令。1045以後の新しい荘園を廃止し、それ以前のものでも不都合なものを廃止した。摂関家の荘園にも厳しく対処するため、特別に記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)を設けた。
●延暦寺(えんりゃくじ)
滋賀県大津市比叡山所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。
●大坂(おおさか・おおざか)
現在の大阪府大阪市。府庁所在地。戦国時代に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心に栄え、1583豊臣秀吉が大坂城を築いて発展、江戸時代には日本経済の中心として「天下の台所」と呼ばれ、明治維新後に大阪と改めた。
●大坂の役(おおさかのえき)=大坂冬の陣(ふゆのじん)+大坂夏の陣
(冬の陣) 1600関ヶ原の戦に勝って天下を取った徳川家康(とくがわいえやす)は、豊臣家滅亡を謀り、1614方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)にいちゃもんをつけて豊臣家を挑発、多数の牢人(ろうにん。浪人)を雇ったことを口実に二十万の大軍で大坂城を攻囲するが、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らの奮戦で攻めきれず、講和した。
(夏の陣) 家康は大坂城の外堀だけを埋めるという講和条件を無視し、内堀まで埋めて豊臣家を挑発、重ねて無理難題を突きつけ、受け入れられないと知るや諸大名に出陣命令、十五万の大軍で再び大坂城に攻め寄せた。豊臣方も奮戦するがかなわず、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らは戦死、大坂城は炎上し、淀殿(よどぎみ)・豊臣秀頼(ひでより)母子は自害、豊臣家は滅亡した。
●大坂城(おおさかじょう・おおざかじょう)→大阪城(おおさかじょう)
大阪市中央区所在。1583〜1585石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に豊臣秀吉が築城、1615大坂夏の陣で落城炎上するが、まもなく再建され、将軍が城主とされ、大坂城代(じょうだい)が置かれた。天守閣は1665落雷で焼失したが、1931再建された。
●おくの細道(ほそみち)
俳諧紀行文。松尾芭蕉(まつおばしょう)作。1702刊。1689.3/17に弟子の河合曽良(かわいそら)を伴って江戸を発ち、東北・北陸をめぐり、8/20美濃大垣(おおがき)に至る旅行記。
●織田信長(おだのぶなが)
(1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦いで浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦いで勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
●外戚(がいせき)
母方の親族のこと。蘇我(そが)・藤原(ふじわら)氏・平(たいら・へい)氏は天皇家の、北条(ほうじょう)氏は源(みなもと・げん)氏の、安達(あだち)氏は北条氏の、日野(ひの)氏は足利(あしかが)氏の外戚として権力を握った。
●加藤清正(かとうきよまさ)
(1562-1611) 武将。大名。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で活躍(七本槍の一人)、1588肥後熊本を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役・1597-1598慶長(けいちょう)の役で奮戦、1600関ヶ原の戦では東軍に属し、1601熊本城を新築した。
●鎌倉幕府(かまくらばくふ)
(1192-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。
●鴨長明(かものちょうめい)
(1155?-1216) 歌人。下鴨(しもがも)神社禰宜(ねぎ)・長継(ながつぐ)の子。1201和歌所寄人(わかどころよりうど)に選ばれ、1204河合社の祢宜になれずに出家、大原(おおはら)・日野(ひの)に隠棲し、随筆『方丈記(ほうじょうき)』・家集『鴨長明集』・歌学書『無名抄(むみょうしょう)』・説話集『発心集(ほっしんしゅう)』を残した。
●関白(かんぱく)
天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。
●小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
(1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て1972衆院議員に当選、厚相・郵政相などを経て、2001自民党総裁として首相に就任、「聖域なき構造改革」を掲げ、派閥解消に尽力、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表し、2005道路公団を民営化、2007の郵政民営化を決定した。
●強訴=嗷訴(ごうそ)
平安時代中期以降に僧兵や神人(じにん)らが神仏を擁して起こしたデモや暴動のこと。江戸時代のものは、農民が公的な手続きをしないで領主に対して年貢軽減を求めたことをいう。
●五街道(ごかいどう)
江戸時代の幹線道路。東海道(とうかいどう)・中山道(なかせんどう)・甲州道中(こうしゅうどうちゅう)・日光(にっこう)道中・奥州(おうしゅう)道中の五道。道中奉行が管理した。
道 名 | 起点・宿駅・終点 |
東海道 | 日本橋・品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根・三島・沼津・原・吉原・蒲原・由比・興津・江尻・府中・丸子・岡部・藤枝・島田・金谷・日坂・掛川・袋井・見附・浜松・舞坂・新居・白須賀・二川・吉田・御油・赤坂・藤川・岡崎・池鯉鮒・鳴海・熱田・桑名・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下・土山・水口・石部・草津・大津(・伏見・淀・枚方・守口・大坂) |
中山道 (中仙道) |
日本橋・板橋・蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄・新町・倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本・軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・八幡・望月・芦田・長窪・和田・下諏訪・塩尻・洗馬・本山・贄川・奈良井・薮原・宮越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠・落合・中津川・大井・大久手・細久手・御嶽・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須・柏原・醒井・番場・鳥居本・高宮・愛知川・武佐・守山・草津・大津(・京都) |
甲州道中 | 日本橋・内藤新宿・下高井戸・上高井戸・国領・下布田・上布田・下石原・上石原・府中・・日野・横山・駒木野・小仏・小原・与瀬・吉野・関野・上野原・鶴川・野田尻・犬目・下鳥沢・上鳥沢・猿橋・駒橋・大月・下花咲・上花咲・下初狩・中初狩・白野・阿弥陀海道・黒野田・駒飼・鶴瀬・勝沼・栗原・石和・甲府・韮崎・台ヶ原・教来石・蔦木・金沢・上諏訪・下諏訪 |
日光道中 | 日本橋・千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋・中田・古河・野木・間々田・小山・新田・小金井・石橋・雀宮・宇都宮・下徳次郎・中徳次郎・上徳次郎・大沢・今市・鉢石 |
奥州道中 | 宇都宮・白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白河 |
●後三条天皇(ごさんじょうてんのう)←尊仁親王(たかひとしんのう)
(1034-1073) 伝七十一代天皇(在位1068-1072)。後朱雀(ごすざく)天皇の皇子。兄・後冷泉(ごれいぜい)天皇没後に即位して親政を行い、1069延久(えんきゅう)の荘園整理令を発し、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ。記録所とも)を設置、摂関家勢力を排除し、学者・大江匡房(おおえのまさふさ)らを登用、1072宣旨枡(せんじます)を定めた。
●五大老(ごたいろう)
豊臣政権の職名。政務機関・五奉行(ごぶぎょう)の顧問。徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の五人の大老のこと。1597隆景死後は上杉景勝(うえすぎかげかつ)が加えられた。
●小西行長(こにしゆきなが)
(1558-1600) 武将。キリシタン大名。堺の豪商・小西隆佐(りゅうさ)の子。豊臣秀吉に仕え、船奉行として紀州・四国・九州攻めに従軍、1588肥後宇土(うと)を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役では先陣として活躍、講和を画策するが失敗、1600関ヶ原(せきがはら)の戦いで西軍について敗死した。
●小早川隆景(こばやかわたかかげ)
(1533-1597) 武将。大名。大老。毛利元就(もうりもとなり)の三男。兄の吉川元春(きっかわもとはる)とともに甥の毛利輝元(てるもと)を補佐、中国進出をもくろむ織田信長と戦い、1582備中高松城水攻めで羽柴(豊臣)秀吉と講和、1585四国攻め・1587九州攻めで活躍し、筑前および筑後・肥前の一部五十二万石の太守、豊臣政権の五大老に列し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役にも出陣したが、1595養子秀秋に家督を譲り、備後三原で隠居した。
●五奉行(ごぶぎょう)
豊臣政権の職名。奉行人。石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)の五人。秀吉没後、徳川家康により解体を余儀なくされた。
●小牧・長久手の戦(こまきながくてのたたかい)
1584豊臣秀吉と徳川家康が小牧(愛知県小牧市)・長久手(愛知県長久手町)で戦った戦い。賤ヶ岳の戦いの後、織田信雄(おだのぶかつ・のぶお。信長の次男)が秀吉と対立、家康と結んで挙兵した。家康は尾張犬山(愛知県犬山市)に入った秀吉と対陣、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・本願寺の顕如(けんにょ)・紀伊の根来(ねごろ)衆・北陸の佐々成政(さっさ・ささなりまさ)とも結んで秀吉の背後をけん制させた。秀吉は家康の本拠三河を攻めさせたが、途中の長久手で敗れたため、信雄の本拠伊勢を攻撃、信雄と単独講和にこぎつけたため、家康も撤退した。
●賤ヶ岳(しずがたけ)の戦
1583羽柴(はしば)秀吉が柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(滋賀県木ノ本町・余呉町境)付近で破った戦い。秀吉と勝家は清洲(きよす)会議で決裂し、北近江で対陣、一時後退した秀吉に勝家の配下・佐久間盛政(さくまもりまさ)が奇襲を仕掛けるが、賤ヶ岳で反撃に出た秀吉に敗退、勝家は越前北庄(きたのしょう)に逃れて自殺した。
●柴田勝家(しばたかついえ)
(1522?-1583) 武将。織田信長に仕え、畿内・近江・越前平定戦に活躍、1575越前一向一揆を平定し、越前北庄(きたのしょう)城主として越前の大半を支配、検地や刀狩(かたながり)を行い、1580加賀一向一揆を鎮圧、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と対決するが、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、信長の三男・信孝(のぶたか)と結んで羽柴(はしば。豊臣)秀吉と争い、1583賤ヶ岳((しずがたけ))の戦いで敗れ、北庄で自害した。
●自由民主党(じゆうみんしゅとう)
1955自由党と民主党の保守合同によって成立した政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。結党以来一貫して政権を保持したが、1993に分裂、初めて野党に転落するが、1994再び政権党に返り咲いた。
●荘園(しょうえん)
貴族や寺社の私有地。自力で開墾したもの(自墾地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。
●蕉風・正風(しょうふう)
松尾芭蕉(まつおばしょう)とその流れを汲む人々の俳風。さび・しおり・細み・軽みを重んじて幽玄・閑寂の境地を求めた。
●白河法皇(しらかわほうおう)←白河上皇(じょうこう)←白河天皇(てんのう)←貞仁親王(さだひとしんのう)
(1053-1129) 伝七十二代天皇(在位1072-1086。院政1086-1129)。後三条(ごさんじょう)天皇の第一皇子。母は藤原公成の娘・茂子。1068父の即位で親王になり、1070立太子、1072父の譲位によって即位し、1086子の堀河(ほりかわ)天皇に譲位して院政(いんせい)を開始、摂関家や弟の輔仁(すけひと)親王を牽制し、北面の武士を設置して武力を強化、東山に法勝寺(ほっしょうじ)を建て、孫・鳥羽(とば)天皇、ひ孫・崇徳(すとく)天皇の即位も見届けて実権を握り続けた。
●関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)
豊臣秀吉没後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣政権を守ろうする石田三成(いしだみつなり)との美濃の関ヶ原での戦い。1598秀吉が没し、1599前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、家康の勢力は拡大、1600反抗的な態度を取った上杉景勝(うえすぎかげかつ)攻め(会津攻め)に向かった。一方、三成は家康の留守を突いて挙兵、毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川秀秋(こばやかわひであき)・小西行長(こにしゆきなが)らを味方につけ、京都の伏見城(京都市伏見区)を攻略、美濃の大垣城(岐阜県大垣市)に入った。一方、家康は三成を討つため小山(おやま。栃木県小山市)で引き返し、福島正則(ふくしままさのり)・池田輝政(いけだてるまさ)を先発させて西上を開始、両軍は関ヶ原で激突するが、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りや、吉川広家(きっかわひろいえ)の内応静観などで三成方は壊滅、三成は行長らとともに京都で処刑された。
●摂関政治(せっかんせいじ)
平安時代中期に藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白職を独占して主導権を握った時代。866応天門の変後の藤原良房(ふじわらのよしふさ)摂政就任に始まり、969安和の変後に摂関は常置となり、藤原道長の代で全盛期を迎えるが、1086院政が始まると衰退した。
●摂政(せっしょう)
天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。
●太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)
律令制における太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)であるが、奈良時代に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が任ぜられた太師(たいし。大師)や、道鏡(どうきょう)が任じられた太政大臣禅師もこれに相当する役職。
●伊達政宗(だてまさむね)
(1567-1636) 武将・大名。初代陸奥仙台藩主。出羽米沢城主・伊達輝宗の長男。1584家督相続し、1585常陸の佐竹義重(さたけよししげ)らを撃破(人取橋の戦い)、1586畠山氏を滅ぼし、1589会津の葦名盛氏(あしなもりうじ)を攻略(摺上原の戦い)、ほぼ陸奥を平定するが、1590豊臣秀吉に、1600徳川家康に服属、1600関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を攻め、1603仙台に引越、1613家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らを欧州に派遣し(慶長遣欧使節)、1614-1615大坂の役にも参戦した。
●天守閣(てんしゅかく)=天守=天主閣
城郭の中心となる高層建築物。現存最古の天守閣は犬山城のもの。以下、戦国〜江戸時代に建てられた城のうち、以下の十二の天守閣が現存する。
城名(別名) |
所在地 |
築城年 |
築城者 |
規模 |
犬山城(白帝城) |
愛知県犬山市 |
1537 |
織田信康 |
三層四階 |
丸岡城(霞ヶ城) |
福井県坂井市 |
1576 |
柴田勝豊 |
二層三階 |
松本城(深志城) |
長野県松本市 |
1596 |
石川康長 |
五層六階 |
彦根城(金亀城) |
滋賀県彦根市 |
1604 |
井伊直継 |
三層三階 |
宇和島城(板島城) |
愛媛県宇和島市 |
1604 |
藤堂高虎 |
三層三階 |
姫路城(白鷺城) |
兵庫県姫路市 |
1609 |
池田輝政 |
五層七階 |
松江城(千鳥城) |
島根県松江市 |
1611 |
堀尾吉晴 |
五層六階 |
丸亀城(亀山城) |
香川県丸亀市 |
1641 |
山崎家治 |
三層三階 |
高梁城(松山城) |
岡山県高梁市 |
1683 |
水谷勝宗 |
二層二階 |
高知城(大高坂城) |
高知県高知市 |
1747 |
山内豊敷 |
三層六階 |
弘前城(高岡城) |
青森県弘前市 |
1810 |
津軽寧親 |
三層三階 |
松山城(勝山城) |
愛媛県松山市 |
1852 |
松平勝善 |
三層四階 |
※ 丸亀・高梁・高知・弘前・松山は江戸時代途中に再建。 ※ 宇和島は伊達宗利の時代に細部を改修。 |
●徳川家康(とくがわいえやす)
(1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦い後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となり、1575長篠(ながしの)の戦いで武田勝頼(たけだかつより)を撃退、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで豊臣秀吉と戦うが講和し、1590小田原(おだわら)攻めの後、武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦いで石田三成らを破り、1603征夷大将軍となって江戸幕府を創設、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲り、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を握りつづけ、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。
●豊臣秀吉(とよとみひでよし)・羽柴(はしば)秀吉・木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
(1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。
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●豊臣秀頼(とよとみひでより)
(1593-1615) 武将。秀吉の子。母は淀殿(よどどの。淀君)。1600関ヶ原の戦いにより天下人後継者から一大名に転落、徳川秀忠(ひでただ)の娘・千姫(せんひめ)と結婚するが、1615方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件から起こった大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で徳川家康に敗れ、淀殿とともに自殺した。
●長束正家(なつかまさいえ)
(?-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、財政や検地に活躍、1600関ヶ原の戦いでは石田三成に属し、敗れて自殺した。
●日本(にほん・にっぽん・やまと)
東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。
●平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
京都府宇治市所在。平等院は藤原の頼通の別荘を寺に改造したもの。鳳凰堂は1053建立の阿弥陀堂(あみだどう)で、国風文化の代表的建築物。定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来像がある。
●伏見城(ふしみじょう)=桃山城(ももやまじょう)
京都市伏見区所在。1592豊臣秀吉が築城。1596慶長の地震で倒壊するが、すぐに再建。秀吉死後は徳川家康が居城とし、1607伏見城代を置いたが、1623解体。西本願寺書院・唐門・都久夫須麻神社本殿・唐門はその遺構とされる。
●藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代には五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。
●藤原道長(ふじわらのみちなが)
(966-1027)公卿。摂政・太政大臣。藤原兼家(かねいえ)の子。995兄の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)の死によって内覧となり、996長徳の変で政敵の藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟を追放、左大臣に昇り、四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)を四人の天皇(一条・三条・後一条・後朱雀)に嫁がせ、天皇の外戚として権力を掌握、1016摂政に、1017太政大臣に就任して摂関政治の最盛期を現出、1020法成寺(ほうじょうじ)を建て、日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』を残した。
●藤原頼通(ふじわらのよりみち)
(992-1074)公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原道長の子。1117父から摂政を譲られ、1119関白に就任、1053宇治に平等院鳳凰堂を建立し、1168政界から引退した。
●文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
(1592-1593,1597-1598) 壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱とも。豊臣秀吉が明を征服するため朝鮮に侵攻した戦争。1592秀吉は加藤清正(かとうきよまさ)・小西行長(こにしゆきなが)ら十六万の大軍を朝鮮に派兵、漢城(現ソウル)や平壌(ピョンヤン)などを攻略し、ほぼ朝鮮全域を蹂躙(じゅうりん)するも、明の救援、義兵の反乱、水軍の将・李舜臣(りしゅんしん)の活躍により後退。1593一時停戦し、明との間で講和交渉が進められたが決裂し、1597再度十四万の大軍を派兵するも苦戦、1598秀吉の死により撤退した。
●方丈記(ほうじょうき)
平安〜鎌倉時代の随筆。鴨長明作。1212成立。『枕草子(まくらのそうし)』『徒然草(つれづれぐさ)』と並ぶ日本三大随筆の一。京都の東南・日野山に隠棲した長明が、昔の天災人災を振り返り、無常観に浸ったもの。
●本能寺の変(ほんのうじのへん)
1582天下統一を目指していた織田信長が家臣の明智光秀に殺害された事件。信長は備中高松城を攻囲中の羽柴(豊臣)秀吉からの報告を受けて自らの出陣を決意し、明智光秀に救援を命令するが、丹波亀山城を出た光秀は老の坂で取って返し、京都本能寺に宿泊していた信長を討ち取り、その子・信忠も二条御所にて討ち取った。
●前田利家(まえだとしいえ)
(1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児秀頼の後見役を務めた。
●松尾芭蕉(まつおばしょう)
(1644-1694) 俳人。北村季吟(きたむらきぎん)・西山宗因(にしやまそういん)らに俳諧を学び、蕉風(しょうふう)俳諧を確立、『奥の細道』『笈(おい)の小文(こぶみ)』『野ざらし紀行』『貝おほひ』などを残し、弟子たちが『俳諧七部集(『猿蓑』など)』た。
●明(みん)
(1368-1644) 中世〜近世の中国王朝。朱元璋(しゅげんしょう。洪武帝)が元(げん)を倒して建国。三代・永楽帝(えいらくてい)はベトナムを支配し、足利義満(あしかがよしみつ)を日本国王に任じた。1644李自成(りじせい)に滅ぼされた。
●毛利輝元(もうりてるもと)
(1553-1625) 武将。大名。大老。隆元(たかもと)の子。元就(もとなり)の孫。二人の叔父・吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)に補佐されて中国地方を治め、畿内を平定した織田信長と対立、1582備中高松城水攻めで羽柴(豊臣)秀吉と和し、1585四国攻め・1587九州攻めに従軍、豊臣政権の五大老に列し、1600関ヶ原(せきがはら)の戦いでは西軍の総大将として石田三成(いしだみつなり)に担ぎ出されて大坂城に入るが、戦後徳川家康に追い出され、長門・周防二国に減封された。
●毛利元就(もうりもとなり)
(1497-1571) 武将。弘元(ひろもと)の子。1523安芸郡山(こおりやま)城主となり、大内義興(おおうちよしおき)、次いでその子・義隆(よしたか)に服属、備後の小早川(こばやかわ)氏・吉川(きっかわ)氏を乗っ取り、1550家臣・井上正兼(のうえまさかね)を粛清、1551義隆を討った陶晴賢(すえはるかた)を1555厳島(いつくしま)の戦で破り、1557大内義長(よしなが)を滅ぼして周防・長門・石見を制圧、1566出雲の尼子義久(あまこ・あまごよしひさ)も滅ぼし、ほぼ中国地方を平定した。
●山崎(やまざき)の戦い
1582山城山崎(京都府大山崎町)で羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀(あけちみつひで)を破った戦い。光秀は京都本能寺(ほんのうじ)で主君・織田信長を討ち(本能寺の変)、畿内を掌握するが、備中高松城攻めを切り上げて取って返してきた秀吉らと山崎で交戦、天王山(てんのうざん)を奪われて大敗し、近江坂本(さかもと)城に逃れる途中で殺された。