1.緊 迫 〜 武田の嵐

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イラク日本人人質事件
1.緊迫 〜 武田の嵐
2.挙手 〜 使者の名乗り
3.報告 〜 岡崎へ
4.激走 〜 長篠へ
5.勇者 〜 強右衛門の選択
  

 天正元年(1573)四月、「甲斐の蹲虎(そんこ)」と恐れられていた当時最強の戦国大名武田信玄が死んだ。
「明日は瀬田
(せた。滋賀県大津市)に旗を立てよ」
 信玄の最期の言葉は、その子・勝頼の胸にひしと刻みつけられたことであろう。
 信玄はこんな遺言もしていた。
「わしの死は三年間隠すように」

 勝頼はこれを守ったが、忍者横行の時代である。その死はすぐに全国に知れ渡った(「ニセ味」参照)
 信玄と反織田信長同盟を結び、全国の信徒を扇動していた一向宗の大ボス・顕如
(けんにょ。本願寺光佐)は、
信玄亡き武田は頼るに値せず」
 と、ショックを受け、信長と和睦してしまった
(「虐殺味」参照)

 信玄の死は彼らにとっては悲劇だったが、信長家康にしてみればチャンス到来であった。
信玄亡き武田は恐れるに足りず」
 さっそく家康は行動を起こした。
 信玄に盗られていた長篠城などを奪還したのである。

「やりやがったな!」
 勝頼も黙ってはいなかった。
 翌天正二年(1574)二月、勝頼美濃三河に乱入、美濃明智
(あけち。岐阜県恵那市)三河足助(あすけ。愛知県豊田市)城を強奪したのである。
「仕返しは倍返しだ」
 五月、勝頼遠江にも侵攻、父信玄ですら落とせなかった高天神
(たかてんじん。静岡県掛川市)を猛攻、一か月後に陥落させてしまった。

「なかなかやるじゃないか」
 気が変わった顕如は、再び信長に反旗を翻した。
 信玄死後、勝頼と結んだ越後の飛竜・上杉謙信は、
越中を平定して加賀へなだれ込んだ。
「おれたちも負けずにやるんだ!」
 元南近江領主・六角義賢
(ろっかくよしかた。承禎)なども各所でゲリラ戦を再開した。
 破竹の勝頼は、いったん消えかけていた全国の反信長勢力を再燃させたのである。

 ただ、馬場信房(ばばのぶふさ。信春)・山県昌景(やまがたまさかげ)といった武田の宿老たちは不満であった。
「昨日も戦、今日も戦、明日も戦では休むひまもありませぬ」
 勝頼は言い切った。
「父は慎重になりすぎていた。だから天下を取る前に、死んじまったんだ。おれはそんなのはゴメンだ。おれの目の黒いうちに家康をたたき、信長を倒し、天下を盗ってみせる! 武田の騎馬隊は天下最強だ。これからも勝って勝って勝ち続けるのだ! おれに付いて来たくないヤツは付いてこなくていい! 休むのは、天下を盗ってからだっ!」

 荒れ狂う武田の嵐に家康は用心した。
勝頼め。今度は長篠を取り戻しに来るじゃろう」
 家康は長篠城の増改築をさせると、翌天正三年(1575)二月、若干二十一歳の若き猛将・奥平貞昌を長篠城主に抜擢した。熱い男には熱い男を立ち向かわせたわけだ。
 今回の主人公・鳥居強右衛門勝商も、貞昌について長篠城に入った。

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