138.法王味 基礎用語集

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大王(おおきみ)
 ヤマト政権の首長。皇族の代表。七世紀から天皇と呼ばれるようになった。

開国≒開国和親(かいこくわしん)
 外国との交流を認め、仲良くしようとする思想。

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置や1192頼朝の将軍就任などによって始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権や得宗(とくそう)として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

百済(くだら・ひゃくさい)
 (前18?-660) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀の初めに馬韓(ばかん)五十五国を統一、北の高句麗(こうくり)、東の新羅(しらぎ・しんら)と勢力を三分するが、660唐(とう)・新羅連合軍に攻められて滅亡した。まもなく旧臣たちによって復興運動が起こり、日本も援助するが、663白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて壊滅した。

四鏡(しきょう)
 鏡の名を持つ歴史物語の総称。以下四つ。

書名 成立年代 巻数 著 者 収録範囲
 大 鏡  平安後期 平安中期(文徳〜後一条)
 今 鏡  平安末期 10 平安後期(後一条〜高倉)
 水 鏡  鎌倉初期 3 中山忠親? 大和〜平安前期(神武〜仁明)
 増 鏡  南北朝時代 17 二条良基? 鎌倉時代(後鳥羽〜後醍醐)

攘夷(じょうい)≒攘夷論
 外国勢力を排斥しようとする思想。

聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやとのおうじ・うまやとのみこ・うまやどのおうじ・うまやどのみこ)=厩戸王(うまやとのおう)
 (574?-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、605上宮(かみつみや・うえのみや)から斑鳩宮(いかるがのみや)に引っ越し、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を遣わし、斑鳩に法隆寺(ほうりゅうじ)や中宮寺(ちゅうぐうじ)を建立、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編修したという。
法王味 襲撃味 日朝味4 憲法味 富豪味

新羅(しらぎ・しんら)
 (前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。

神道(しんとう)
 日本に古来から伝わる民族信仰。古墳時代の氏神(うじがみ)崇拝に始まり、平安時代に神社制度が整備され、鎌倉時代には伊勢(いせ)神道、室町時代には唯一(ゆいいつ)神道、江戸時代には垂加(すいか)神道といった理論も生まれた。

(ずい)
 (581-618) 古代中国の王朝。楊堅(ようけん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。589南の陳(ちん)を滅ぼして中国を統一し、開皇律令を定め、中央集権体制を確立させたが、子の煬帝(ようだい)の時に東の高句麗(こうくり)遠征に失敗して衰退、その孫・恭帝が李淵(りえん)に禅譲して滅んだ。

推古天皇(すいこてんのう)←額田部皇女(ぬかたべのおうじょ・ぬかたべのひめみこ)=豊御食炊屋姫(とよみけかしやきひめ)
 (554-628) 伝三十三代天皇(在位587-628)。欽明(きんめい)天皇の皇女。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・堅塩媛(きたしひめ)。敏達(びだつ)天皇の皇后となって竹田皇子らを生み、587用明天皇没後、崇峻天皇を大王に推挙、592崇峻天皇横死後に大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)に推され、日本最初の女帝として即位し、聖徳太子を太子(摂政)に任じ、仏教政策を推進、飛鳥文化を花開かせた。法王味
襲撃味

蘇我氏(そがし・そがうじ)
 古代の大豪族。姓は臣(おみ)。氏祖は武内宿祢(たけちのすくね)の子・蘇我石河(そがのいしかわ)という。大和国高市郡(たかいちぐん)蘇我を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大臣(おおおみ)を輩出、財政を担当したが、645中大兄皇子らに滅ぼされた。

蘇我稲目(そがのいなめ)
 (?-570) 大臣(おおおみ)。高麗(こま)の子。娘の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇に嫁がせて外戚(がいせき)となり、朝廷の財政を担当、崇仏に努め、587排仏派の物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)らと対立した。
法王味

蘇我馬子(そがのうまこ)
 (?-626) 大臣(おおおみ)。稲目(いなめ)の子。崇仏に努め、587排仏派の物部守屋(もののべのもりや)と有力皇位継承者・穴穂部皇子(あなほべのおうじ)らを討ち、崇峻(すしゅん)天皇を立てるが592に暗殺し、推古(すいこ)天皇を擁立、聖徳太子(厩戸皇子)を太子(摂政)に立てて国政を主導、596飛鳥寺(あすかでら。法興寺)を完成させ、620聖徳太子とともに『天皇記』『国記』を編修した。襲撃味

道鏡(どうきょう)弓削(ゆげ)道鏡
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子になり、孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。奈良味女帝味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。六国史の第一。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

藤原不比等(ふじわらのふひと)
 (659-720)公卿。右大臣。中臣(藤原)鎌足(なかとみ・ふじわらのかまたり)の子。武智麻呂(むちまろ。南家)・房前(ふささき。北家)・宇合(うまかい。式家)・麻呂(まろ。京家)・光明子(こうみょうし)らの父。仲麻呂(なかまろ)・広嗣(ひろつぐ)・百川(ももかわ)らの祖父。701刑部(おさかべ)親王とともに大宝律令(たいほうりつりょう)を完成させ、718養老(ようろう)律令も編修、710平城京(へいじょうきょう)遷都や721『日本書紀(にほんしょき)』編修にも関与した。
偽装味 粛清味

仏教(ぶっきょう)=仏道(ぶつどう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んで浸透した。

法王≦法皇(ほうおう)
 766称徳(しょうとく)天皇が道鏡(どうきょう)に授けた称号(法王)または上皇が出家した際の称(法皇・法王)。前者は770称徳天皇没後、道鏡の失脚により廃絶。後者の最初は899出家した宇多法皇。また、聖徳太子も法王と呼ばれた。

法隆寺(ほうりゅうじ)=斑鳩寺(いかるがでら)
 奈良県斑鳩町所在。聖徳宗総本山。南都七大寺の一つ。金堂(こんどう)・五重塔(ごじゅうのとう)・中門(ちゅうもん)・歩廊(ほろう。回廊とも)は世界最古の木造建築物で、ほとんどの建物が国宝。607用明(ようめい)天皇の遺志を継いだ聖徳太子(しょうとくたいし)が完成させた。1993世界文化遺産に選定。

物部守屋(もののべのもりや)
 (?-587) 大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。仏教を排斥し、崇仏派の大臣・蘇我馬子と対立、587用明(ようめい)天皇没後、穴穂部(あなほべ)皇子擁立を図るが、皇子は殺され、自身は馬子らと戦って射殺された。

山背大兄王(やましろのおおえのおう)
 (?-645) 聖徳太子の第一王子。推古(すいこ)天皇死後、境部摩理勢(さかいべのまりせ)に推されたが、摩理勢は蘇我蝦夷(えみし)に殺され、蝦夷の推す田村皇子(舒明天皇)が即位、643蘇我入鹿に本拠斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃され、一族もろとも自殺に追い込まれた。

歴史物語(れきしものがたり)
 平安時代末期以降に書かれ始めた歴史に取材した物語。藤原道長を描いた『栄花物語』に始まり、『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』『月のゆくへ』『池の藻屑』などが有名。

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