4.聖徳太子の出兵

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 聖徳太子推古天皇摂政を務めた七世紀初めの皇族・権力者である(「法王憲法味」参照)

 推古天皇九年(601)、新羅が旧任那に攻め込んだため、聖徳太子はこれに対抗するため 将軍・境部某(さかいべのなにがし)・副将軍・穂積(ほづみ)某らを派兵したが、戦果は上げられなかった。

 翌年、聖徳太子は実弟・来目皇子(くめおうじ・くめのみこ。久米皇子)将軍に任じ、二万五千人の兵を与えて再度新羅を攻めさせようとした。
 が、来目皇子は九州で発病、あっけなく病没してしまった
(新羅のスパイに暗殺されたという説もある)
 そのため聖徳太子は、その兄・当麻皇子
(たいまおうじ・たいまのみこ)を後任の将軍に任じた。
 当麻皇子は摂津難波
(なにわ。大阪府大阪市)を出航したが、播磨明石(あかし。兵庫県明石市)にて妻の舎人姫王(とねりのひめのおおきみ)を亡くしたため、
「もう悲しすぎて戦争なんかできない」
 と、勝手に家に帰ってしまった。
 こうして聖徳太子新羅攻めもまた、挫折
(ざせつ)したのである。

 聖徳太子推古天皇三十年に病没した(『日本書紀』では二十九年)
 斑鳩宮
(いかるがのみや。奈良県斑鳩町)を継承したのは、彼の長子・山背大兄王である。
 山背大兄王は父に似て頭が良かったため、権力独り占め一家・蘇我氏に次第に疎まれるようになった。

 皇極天皇二年(643)、時の実力者・蘇我入鹿は斑鳩宮を急襲、山背大兄王とその妻子すべてを死に追いやった。
 上宮王家
(聖徳太子一家)もまた、二代で滅びてしまったのである。

*          *          *

 聖徳太子と同時代の実力者・蘇我馬子(「襲撃味」参照)もまた、崇峻天皇の時代と聖徳太子の死後に二度に渡って朝鮮出兵を行っている。
 蘇我氏もまた、馬子の孫の入鹿の代で滅亡を迎えるが、これはまだ子の蘇我蝦夷が生存中の事件なので、二代で滅んだといってもいいであろう。

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