ホーム>バックナンバー2019>平成三十一年三月号(通算209号)祈り味 ルーズベルトを裸にする4.ルーズベルトは二番煎じ
さて、ルーズベルトが鬱蒼(うっそう)たるハイドパークの大名屋敷で生まれた時、彼の父親ジェームズは、ルーキスビルニューアルバニー鉄道会社の社長で、五十三歳の金満中老紳士であった。そして母親サラ・デラノは、二十七歳の娘であった。一粒種のルーズベルトの教育がいかなるものであったか、想像に任せて良しい。彼は金持ちの息子の型の通り、ハーバード大学を卒業すると、さらにコロンビア大学で法律を習い、一九〇七年弁護士を開業した。そして親譲りの金権と民主党のお株によって、一九一〇年二八歳の若干でニューヨーク州上院議員に当選した。
世の中の苦労も知らず、世界の苦悶(くもん)も知らないこの「金持ちの息子」の青年政治家は、当時ウィルソン大統領の理想主義に共鳴し、その偽善的人道主義にすっかりかぶれて熱心にお先棒を担いだのが認められて、一九一三年には海軍次官に抜擢(ばってき)された。そしてウィルソンの世界連盟政策の亜流として、欧州大戦に大いにアメリカ独裁の妄夢を描いたものであった。
我々は日米危機より日米開戦に至る、ルーズベルトの日本に対する恫喝(どうかつ)偽善政策を検討するならば、彼が三十年前にウィルソンの下で妄想したアメリカ世界独裁の妄夢と、人道主義の仮面をかぶった金権帝国主義の正体を知り憤然とするであろう。
全くルーズベルトのごときは、偉大なる政治家でも何でもない。我々は彼をウィルソンの亜流として軽蔑すればいいのだ。すなわち民主党の寵児(ちょうじ)としてトントン拍子にせり上っていたルーズベルトは、欧州大戦のあおりを食って、ウィルソンの手土産の国際連盟案がアメリカ国民に排撃されるや、かれもまたウィルソンの亜流として国民より突き放され、一九二〇年副大統領選挙に立候補したが、見事に落選してしまった。
彼は翌一九二一年八月、突然悪性の小児麻痺(まひ)で重態に陥り、全身不具の廃人になりかけたが、三年間病床で頑張った結果、両腕は利くようになり、両脚も松葉杖にすがって歩けるようになった。危うく片端者ルーズベルトになりかけた彼が、病床で不治の難病を克服した人生体験が、生来の傲慢な「金持ちの息子」をかえって図々しいクソ度胸を固めさせたといえるであろう。


