5.橘奈良麻呂の変 | ||||||||||||||
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天平勝宝九歳(757)七月三日、藤原豊成や藤原永手ら八名が左衛士府に赴き、小野東人らを尋問した。
ちなみに左衛士督(さえじのかみ。左衛士府長官)は坂上犬養(さかのうえのいぬかい。苅田麻呂の父)である。
しかし、穏やかに尋ねる豊成らに、東人はしらばくれ続けた。
「はあ〜?おれたちは何にも知らないよ〜」
夕方、藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂・大伴古麻呂・黄文王・安宿王・塩焼王の五人を呼び出し、藤原光明子の詔を伝えた。
「皇太后陛下はこう言われた。『あなたたちが謀反をくわだてているとある人が告げてきました。あなたたちは天皇家の身内だし、高い位も与えているのに、どうしてそのような恐ろしいことを考えたのですか?何かの間違いですよね?今回に限って、あなたたちの罪は許します。以後、このようなことはあってはなりません』と」
(無罪だと……)
てっきり死刑か島流しだと思い、仲麻呂と刺し違える覚悟を決めてやって来た奈良麻呂だったが、思わぬ詔に拍子抜けし、ほかの四人とともに深々と頭を下げるしかなかった。
(仲麻呂め、何を考えている?)
奈良麻呂は頭を上げた後、仲麻呂の顔色をうかがったが、彼は素早く身を翻して引っ込んでしまった。
その晩、田村宮に住む孝謙天皇が、仲麻呂の寝殿を訪ねて尋ねた。
「仲麻呂、本当に奈良麻呂は謀反のことなど考えていなかったのね?無罪だったのね?」
「いえ。謀反は紛れもない事実ですが、皇太后陛下のお慈悲と、兄豊成の告げ口により、あの場はああいう処置を取らざるを得なかっただけです」
仲麻呂は暗くおどろおどろしくつけ足した。
「が、奈良麻呂らをこのままにしておけば、いずれ私たちは後悔するでしょう。それもおそらく、あの世で――」
「いやよ!あたしはまだ死にたくないわっ!」
「だったら今のうちに、奈良麻呂を始末してしまいましょう」
「そんなこと言ったって、もう無罪って決まってしまったじゃないの」
「まだ決まっていません。小野東人らを捕らえていることをお忘れですか?ヤツらにあることないことをしゃべらせ、改めて奈良麻呂を有罪にするのです」
「でも、東人たちは、しゃべるかしら?」
「痛い目に遭わせればしゃべるでしょう。どうしてもしゃべらなければ、しゃべったことにしてしまえばいいだけのこと」
七月四日、仲麻呂は永手とその手の者だけをひそかに左衛士府に遣わし、改めて東人を尋問した。
東人は変な顔をした。
「あれ?我々の無罪は証明されたんじゃなかったの?」
永手は極太の杖(じょう)見せながら言った。
「いいや。今日は改めて激しく尋問することにした。この杖でたたきのめしながら」
「げえ!」
「さあ、吐け!吐かないとこれでなぐりまくるぞ!」
「そんな〜」
「言えよコラ!」
ボカスカ!
「うわ!いてえ!ハンパじゃねえ!」
「オラッ!言え!吐きやがれっ!」
ボカーン!
ドカーン!
ズゴーン!
「ひーん!ぎゃーん!分かった!言う〜言う〜!たまらん!マジで死ぬて!もうやめてくれー!」
東人はついに白状した。計画の詳細や一味の面々を洗いざらい暴露したのである。
これによって名前の挙がった人々が片っ端から逮捕され、左衛士府で同様な拷問を受けた。
次いで佐伯古比奈(さこひな)の告発によって鴨角足の裏切りも判明、逮捕されてたたきまくられた。
拷問は悲惨を極めた。
「もうしゃべったのにー!」
一同は尋問後も船王や百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)らによって執拗(しつよう)になぐられ続け、余りのひどさに絶命する者も多かった。
奈良時代の正史『続日本紀』によれば、黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人・鴨角足・多治比犢養らがめった打ちにされて息絶えたという。
● 参議以上に昇った多治比氏人 | ||||
官 職 | 位 階 | 名前 | 生没年 | 備 考 |
左大臣 | 正二位 | 島(しま) | 624-701 | 多治比古王の子。 |
大納言 | 従二位 | 池守(いけもり) | ?-730 | 島の子。 |
中納言 | 正三位 | 県守(あがたもり) | 668-737 | 島の子。 |
中納言 | 従三位 | 広成(ひろなり) | ?-739 | 島の子。 |
中納言 | 従三位 | 広足(ひろたり) | 681-760 | 島の子。 |
参 議 | 従四位上 | 土作(はにつくり) | ?-771 | 島の孫。水守の子。 |
参 議 | 従三位 | 長野(ながの) | 706-789 | 島の孫。家主の子。 |
参 議 | 従三位 | 今麻呂(いままろ) | 753-825 | 土作の子。 |
また、陸奥守兼鎮守副将軍の佐伯全成は自白後首をつり、安宿王は妻子とともに佐渡へ、信濃守・佐伯大成(おおなり)と土佐守・大伴古慈悲(こじひ)は任国へ、遠江守・多治比国人は伊豆へ、それぞれ半殺し状態で島流しにされた。
さらに、中納言多治比広足(ひろたり)が同族から多くの謀反人を出した責任を取らされて解任させられた。多治比氏は飛鳥時代の多治比島(しま。「偽装味」参照)以来、何人かの公卿を輩出してきたが、この事件を境に一挙に衰退してしまったのである。
ただ、盟主とされた諸王の中でただ一人塩焼王だけがなぜか許され、氷上(ひかみ)姓を与えられ、臣籍降下されたにとどまった。後に彼は、恵美押勝の乱において、仲麻呂によって偽帝に擁立されることになる。
一方、密告者は昇進した。
上道斐太都… 中衛舎人・従八位上→中衛少将・従四位下。
山背王… 従四位上→従三位。
巨勢堺麻呂… 紫微大弼・下総守・従四位上→紫微大弼・左大弁・従三位。
ところが『続日本紀』の記事にはおかしな点がある。
それは、首謀者である奈良麻呂の処分が記されていないことである。
このことについて多くの歴史家が獄中で死んだものとしているが、私はそうは思わない。友人である藤原乙縄(おとただ。豊成の子)の手引きで脱走したと推測している。
後日、乙縄やその父豊成が遅れて処罰されているのは、そのためではあるまいか?
七月九日、仲麻呂は永手や犬養らを豊成邸に差し向けた。
「乙縄を差し出せ!奈良麻呂をかくまっているのだろう?」
が、豊成父子は奈良麻呂を逃がしはしたが、かくまってはいないようであった。
七月十二日、豊成は大宰員外帥(いんがいのそち)に、乙縄は日向員外掾(じょう)にそれぞれ左遷された。
しかし豊成は病気と称して難波の別邸に引きこもり、決して任地へ赴こうとはしなかった。
「私は不当な処分には屈しない」
「そうですとも。滅びる運命にある者の言うことなど、聞く必要はありません」
そう言ったのは、九州からひそかにやって来た覆面の客人。
豊成はその後も難波でひっそりと生き続けた。
彼が没したのは、仲麻呂が吉備真備の軍略によって敗死した翌年のことである。