90.意地味 基礎用語集

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アメリカ≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)
 (729-781)学者・公卿。大納言。乙麻呂(おとまろ)の子。770称徳(しょうとく)天皇没後に藤原永手(ふじわらのながて)らと光仁(こうにん)天皇を擁立、淡海三船(おうみのみふね)と並ぶ文人で、旧邸の一角に日本最初の公開図書館「芸亭(うんてい)」を開いた。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。別名恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び即位、道鏡が専横した。
日朝味6

大伴氏(おおともしおおともうじ)→伴氏(ともし)
 古代の大豪族。氏祖は天孫降臨に従った天忍日命(あめのおしひのみこと)という。摂津(せっつ)・和泉(いずみ)、後に大和の城上(しきのかみ)・十市(とおち)郡を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当するが、540金村失脚後に衰退した。平安時代に淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)を避けて伴氏となった。⇒大伴氏伴氏系図

大伴家持(おおとものやかもち)
 (718?-785)公卿。歌人。中納言。三十六歌仙の一。大伴旅人(たびと)の子。内舎人(うどねり)として聖武(しょうむ)天皇に仕え、越中守(えっちゅうのかみ)・薩摩守(さつまのかみ)・衛門督(えもんのかみ)等を経て、780参議に就任、782氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変に関係して解任されるが、783中納言(ちゅうなごん)に昇り、『万葉集』を編集したと思われるが、785藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わった罪で死後に処罰された。怨念味1

韓国(かんこく)=大韓民国(だいかんみんこく)←大韓帝国(だいかんていこく)
 (1897-1910,1948-) アジアの朝鮮半島南部にある国。李氏朝鮮王朝二十六代・高宗(こうそう)が国号を大韓帝国と改めるが、1910韓国併合条約によって日本の植民地になり(日韓併合)、1945-1948アメリカの占領を経て、1948大韓民国として独立した。首都はソウル。

吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。下道圀勝(くにかつ)の子。717-735唐に留学、玄ム(げんぼう)とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となり、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を担当するが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の圧力で一時左遷、怡土城を築城するが、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師に抜擢されて活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室智努(ふんやのちぬ。浄三)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。
辞任味 意地味

行基(ぎょうき)
 (668-749) 僧。道昭(どうしょう)に師事し、法相宗を学習、諸国をめぐって民衆を教化し、各地に寺・池・堤・橋などを建設するなど社会事業に従事、東大寺大仏造営の勧進を任され、大僧正に任ぜられるが、大仏完成前に没した。温泉味

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

光明皇后(こうみょうこうごう)=藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)→光明皇太后(こうみょうこうたいごう)
 (701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。皇太后。藤原不比等(ふひと)の三女。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、聖武天皇の仏教政策に協力し、749夫の没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、娘の孝謙(こうけん)天皇を後見して実権を掌握、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組し、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。

五衛府(ごえふ)=衛府=衛門府(えもんふ)+左衛士府(さえじふ)+右衛士府(うえじふ)+左兵衛府(さひょうえふ)+右兵衛府(うひょうえふ)
 古代の宮都警備隊の総称。それぞれ長官(かみ)は督、次官(すけ)は佐、判官(じょう)は大尉・少尉、主典(さかん)は大志・少志。宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持などを担当した。811に左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府となる。

国司(こくし)
 古代に諸国の政務をつかさどった地方官。現在でいう都道府県庁高官に相当。長官(守・かみ)・次官(介・すけ)・判官(掾・じょう)・主典(目・さかん)という四等官(しとうかん。幹部のこと)が朝廷から派遣され、国衙(こくが。国庁とも。役所のこと)に勤務し、郡司(ぐんじ)・里長(りちょう・さとおさ)らを支配した。天武天皇の頃に成立し、鎌倉時代に守護・地頭勢力に押されて衰退した。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。神祗官(じんぎかん)は伯(はく・かみ)・副(ふ・すけ)・祐(じょう)・史(さかん)、八省は卿(きょう・かみ)・輔(ふ・すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、職は大夫(だいぶ・かみ)・亮(すけ)・進(じょう)・属(さかん)、寮は頭(かみ・とう)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち・かみ)・弐(に・すけ)・監(げん・じょう)・典(てん・さかん)、鎮守府は将軍(しょうぐん・かみ)・副将軍(ふくしょうぐん・すけ)・軍監(ぐんげん・じょう)・軍曹(ぐんそう・さかん)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 伝四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位、752東大寺大仏開眼法要を開き、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、戦没者のために百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)とし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれた。
女帝味

聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
暴発味辞任味 

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

多賀城(たがじょう)
 古代、陸奥にあった城柵(じょうさく)。宮城県多賀城市所在。724大野東人(おおののあずまひと)が築城し(それ以前にも柵は存在)、762藤原朝狩(ふじわらのあさかり)が修築、陸奥国府と鎮守府が置かれ、東北統治と蝦夷征討の拠点となったが、鎮守府は802造営された胆沢城(いさわじょう)に移された。城跡は国指定特別史跡。

大宰府(だざいふ)=遠の朝廷(とおのみかど)
 九州に置かれた古代の地方特別官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった朝廷の出張所。長官は大宰師(だざいのそち)。663白村江(はくそんこう)の戦後に設置され、九世紀以降は貿易も行って活性化したが、1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
暴発味

太政官(だいじょうかん・だじょうかん)
 
律令制において神祗官(じんぎかん)と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下すべての官庁を統括。事務局としてし少納言局・弁官局をもつ。⇒古代官制

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
 (721?-757?) 公卿。諸兄の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘の多比能(たひの)。摂津大夫・民部大輔・左大弁などを経て749参議に昇るが、藤原仲麻呂(なかまろ)の政策に反感を抱き、757父の死後に大伴(おおとも)・佐伯(さえき)・多治比(たじひ)氏らと反乱を画策するも、未然に鎮圧されて逮捕された(橘奈良麻呂の変・乱)。
辞任味 意地味

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変=橘奈良麻呂の乱
 757橘諸兄(たちばなのもろえ)死後、大炊親王(おおいしんのう。後の淳仁天皇)を擁立して実権を握った藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に対し、参議・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が大伴古麻呂(おおとものこまろ)・小野東人(おののあずまひと)らと反乱を起こそうとしたが、計画は事前に発覚、古麻呂・東人らは獄死し、奈良麻呂も獄死したとされているが不明。
意地味

橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう・かずらきおう)
 (684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、参議から大納言、右大臣、左大臣と昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われるが、756左大臣を辞任した。
辞任味

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
 (1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。

鎮守府(ちんじゅふ)
 律令制で蝦夷平定のため陸奥に置かれた軍政府。長官は鎮守将軍。奈良時代に多賀城(たがじょう)に置かれ、802胆沢(いさわ)城に、さらに平泉(ひらいずみ)に移されるが、奥州藤原氏滅亡によって廃絶した。

舎人親王(とねりしんのう)=舎人皇子
 (676-735) 皇族。知太政官事(ちだいじょうかんじ)。天武(てんむ)天皇の皇子。淳仁(じゅんにん)天皇らの父。720藤原不比等(ふじわらのふひと)没後に知太政官事に就任、『日本書紀』を完成させ、新田部(にいたべ)親王と共に皇族の長老として政界で重きをなした。

長屋王(ながやおう)長屋親王(ながやしんのう)
 (676?-729)皇族・公卿。左大臣。高市皇子(たけちのおうじ)の子。天武(てんむ)天皇の孫。母は御名部(みなべ)皇女?。文武(もんむ)天皇の妹・吉備(きび)内親王を妻とし、元明(げんめい)天皇に信頼され、藤原不比等(ふじわらのふひと)死後は政界首班として722良田百万町歩の開墾を計画、723三世一身法を施行したが、729藤原四兄弟によって謀反の罪を着せられて自殺に追い込まれた(長屋王の変)。その邸宅跡から多くの木簡が出土とした。

難波宮(なにわのみや)
 奈良時代の一時期の首都。京域は現在の大阪市内。726聖武(しょうむ)天皇は藤原宇合(ふじわらのうまかい)に命じて孝徳(こうとく)天皇の難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)を再建、744元正上皇が恭仁京(くにきょう)から遷都した。その後も副都的役割を果たしたが、793桓武(かんむ)天皇によって廃止された。

奈良時代(ならじだい)
 (710-784) 平城京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。710元明(げんめい)天皇の平城京遷都に始まり、律令国家の最盛期にあたり、天平文化が栄えた。784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都で幕を閉じたが、784-794長岡京時代も含む場合もある。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

秦氏(はたうじ・はたし)
 古代に繁栄した氏族。氏祖は応神(おうじん)天皇の代に百済(くだら)?から渡来した弓月君(ゆづきのきみ)。本拠は山背(やましろ。山城)国葛野(かどの)郡。養蚕・機織を広め、広隆寺(こうりゅうじ)を創建、784長岡京遷都・794平安京遷都に協力した。

藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
 特に古代に繁栄した氏族。四姓の一。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代に北家の嫡流である摂関家は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。⇒藤原氏系図

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って挙兵し、近江で敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
辞任味日朝味6

藤原不比等(ふじわらのふひと)
 (659-720)公卿。右大臣。中臣(藤原)鎌足(なかとみ・ふじわらのかまたり)の子。武智麻呂(むちまろ。南家)・房前(ふささき。北家)・宇合(うまかい。式家)・麻呂(まろ。京家)・光明子(こうみょうし)らの父。仲麻呂(なかまろ)・広嗣(ひろつぐ)・百川(ももかわ)らの祖父。701刑部(おさかべ)親王とともに大宝律令(たいほうりつりょう)を完成させ、718養老(ようろう)律令も編修、710平城京(へいじょうきょう)遷都や721『日本書紀(にほんしょき)』編修にも関与した。
偽装味

平城宮(へいじょうきゅう・へいぜいきゅう)
 奈良時代の宮城(大内裏・皇居+官庁街)。平城京の北端中央にあった都城の中心区画。内裏(皇居)・朝堂(議事堂)・諸官庁からなる。

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。

物部氏(もののべし・もののべうじ)
 古代の大豪族。氏祖は饒速日命(にぎはやひのみこと)という。河内国渋川郡(しぶかわぐん)付近を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当したが、587守屋(もりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に滅ぼされて衰退した。

養老律令(ようろうりつりょう)
 古代の基本法典。718元明朝に藤原不比等(ふじわらのふひと)により完成。律十巻・令十巻。757藤原仲麻呂(なかまろ)が施行。

六国史(りっこくし)
 奈良〜平安時代にかけて編修された正史のこと。以下六つ。

書名
(よみかた)
成立年 巻数 (編修命令者)
編集者
編集範囲
日本書紀
(にほんしょき)
養老四年
720
30+1 (天武天皇・元明天皇ら)
舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら
神代〜持統
(-697)
続日本紀
(しょくにほんぎ)
延暦十六年
797
40 (桓武天皇)
菅野真道・藤原継縄
・秋篠安人・中科巨都雄ら
文武〜桓武
(697-791)
日本後紀
(にほんこうき)
承和七年
840
40 (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇)
藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣
・良岑安世・源常・清原夏野ら
桓武〜淳和
(792-833)
続日本後紀
(しょくにほんこうき)
貞観十一年
869
20 (文徳天皇)
藤原良房・春澄善縄
・伴善男・安野豊道ら
仁 明
(833-850)
日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)
元慶三年
879
10 (清和天皇・陽成天皇)
藤原基経・南淵年名・菅原是善
・大江音人・善淵愛成・都良香
・島田良臣ら
文 徳
(850-858)
日本三代実録
(にほんさんだいじつろく)
延喜元年
901
50 (宇多天皇・醍醐天皇)
源能有・菅原道真・藤原時平
・大蔵善行・三統理平ら
清和〜光孝
(858-887)

※日本書紀の+1は系譜一巻(現存せず)

和気清麻呂(わけのきよまろ)
 (733-799) 官人・公卿。姉・和気広虫(ひろむし。法均尼)とともに孝謙(こうけん。称徳)天皇に仕え、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍、769道鏡皇位事件(宇佐八幡宮神託事件)で法王・道鏡(どうきょう)の即位を阻止するが、大隅へ流刑にされ、771赦免、摂津大夫(せっつのだいぶ)・民部大輔(みんぶのたいふ)・中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)を兼ね、長岡京(ながおかきょう)造営に尽力、桓武(かんむ)天皇に平安京遷都を進言し、その造宮にも携わった。
女帝味

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