136.教育味 基礎用語集

ホーム>バックナンバー2013>基礎用語集

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

宇多法皇(うだほうおう)←宇多上皇(じょうこう)←宇多天皇←源定省(みなもとのさだみ)
 (867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を残した。スト味 受験味朦朧味

加持祈祷(かじきとう)
 密教由来の祈祷形態。呪文(じゅもん)を唱え、病気平癒や災害よけ、現世利益などを祈った。

公卿(くぎょう)
 古代の閣僚。上級官人層。公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。中世以降は武家に実権を奪われ、概して国政を担うことはなくなった。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。是善(これよし)の子。母は伴氏。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味 入試味 教育味

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

醍醐天皇(だいごてんのう)←敦仁親王(あつぎみしんのう)
 (885-930) 伝六十代天皇(在位897-930)。宇多(うだ)天皇の皇子。母は藤原高藤(たかふじ)の女・胤子(いんし)。893皇太子となり、897父から「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と皇位を譲られて即位、901昌泰(しょうたい)の変で菅原道真(すがわらのみちざね)を左遷し、902延喜の荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発令、藤原時平(ふじわらのときひら)らに『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』「延喜格式(えんぎきゃくしき)」を、905紀貫之(きのつらゆき)らに勅撰和歌集『古今和歌集』を編集させ、907延喜通宝を鋳造、914三善清行(みよしきよゆき)らに意見封事を上申させるなど延喜の治を行った。受験味 詐欺味3
入試味

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

平 将門(たいらのまさかど)
 (?-940) 武将。良持(よしもち。良将)の子。初め京都で関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕え、下総に帰国後、931伯父・平良兼(よしかね)と対立、931伯父・平国香(くにか)を殺し、その子・平貞盛や良兼らを撃破、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)国府を攻略し、ほぼ関東一円を支配、新皇(しんのう)を称し、下総猿島(さしま)を内裏としたが、940貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれた(平将門の乱)。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

藤原忠平(ふじわらのただひら)
 (880-949) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原基経(もとつね)の子。母は人康親王(さねやすしんのう)の女。時平(ときひら)らの弟。900参議になるが辞退し、908還任、914右大臣となり、927『延喜式』を完成、930朱雀(すざく)天皇の摂政に就き、935-941承平・天慶の乱を平定、941関白に転じ、日記『貞信公記(ていしんこうき)』を残した。
受験味 入試味 教育味

藤原時平(ふじわらのときひら)
 (871-909) 公卿。左大臣。藤原基経(もとつね)の子。忠平(ただひら)・温子(おんし。宇多天皇女御)・穏子(おんし。醍醐天皇皇后)らの兄。891参議となり、中納言・大納言を経て899左大臣に昇進、901右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を讒言(ざんげん)して大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷させ、醍醐(だいご)天皇による延喜の治(えんぎのち)を主導、『日本三代実録』『延喜格式』編修をするが、子孫は栄えなかった。
受験味 入試味2

藤原基経(ふじわらのもとつね)
 (836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。スト味
諾威味

平安京(へいあんきょう)
 (794-1868) 平安〜江戸時代の日本の首都。平安時代の政治の中心地。京域は京都盆地北部(京都市)。東西約四・五キロ、南北約五・二キロ794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

六国史(りっこくし)
 奈良〜平安時代にかけて編修された正史のこと。以下六つ。

書名
(よみかた)
成立年 巻数 (編修命令者)
編集者
編集範囲
日本書紀
(にほんしょき)
養老四年
720
30+1 (天武天皇・元明天皇ら)
舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら
神代〜持統
(-697)
続日本紀
(しょくにほんぎ)
延暦十六年
797
40 (桓武天皇)
菅野真道・藤原継縄
・秋篠安人・中科巨都雄ら
文武〜桓武
(697-791)
日本後紀
(にほんこうき)
承和七年
840
40 (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇)
藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣
・良岑安世・源常・清原夏野ら
桓武〜淳和
(792-833)
続日本後紀
(しょくにほんこうき)
貞観十一年
869
20 (文徳天皇)
藤原良房・春澄善縄
・伴善男・安野豊道ら
仁 明
(833-850)
日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)
元慶三年
879
10 (清和天皇・陽成天皇)
藤原基経・南淵年名・菅原是善
・大江音人・善淵愛成・都良香
・島田良臣ら
文 徳
(850-858)
日本三代実録
(にほんさんだいじつろく)
延喜元年
901
50 (宇多天皇・醍醐天皇)
源能有・菅原道真・藤原時平
・大蔵善行・三統理平ら
清和〜光孝
(858-887)

※日本書紀の+1は系譜一巻(現存せず)

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system