5.嬲殺! 桓武天皇!! 〜 早良親王の功績

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抹殺された早良親王の功績
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5.嬲殺! 桓武天皇!! 〜 早良親王の功績

 延暦十三年(794)十月二十二日、桓武天皇は葛野の新京に遷都、十一月八日、山背国山城国と改め、新京を「平安京」と号した。
 いわゆる「平安京遷都
(平安遷都)」である。

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平安宮[1][2][3]
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 延暦十四年(795)一月、遷都を祝う盛大な式典が開かれ、五月には大極殿(だいごくでん。天皇座所)・朝堂院(ちょうどういん。国会議事堂)が完成、延暦十五年(796)正月、桓武天皇は初めてそこで朝賀(元日の大礼)を開いた。
「今度こそ、怨霊が入り込むスキのない、防備万全の完璧
(かんぺき)な帝都を築き上げるのだ!」

 ところがその年の五月、またしても豪雨によって洪水が発生、早々と新京は水浸しになってしまった。

 さらに延暦十七年(798)八月には巨大台風が襲来、西日本に甚大な被害をもたらし、またしても都は汚泥にまみれた。
 桓武天皇は造宮大夫
(ぞうぐうのだいぶ。国交相。延暦十五年就任)和気清麻呂を呼びつけて叱責(しっせき)した。
「ええい、なんだこれは! いつもこんな水浸しでは、造宮工事がはかどらないではないか! 水はけがいいから葛野に遷都したのではなかったのか!」
「申しわけありません。河川工事に手間取っておりまして……」
 その清麻呂は、延暦十八年(799)二月に六十七歳で病没。
 また、この年までに右大臣・藤原継縄、侍医・羽栗翼、皇太子護持僧・善珠らも次々と没している。

桓武天皇在位時の政界首班 
(781-806)

最高職 最高位 氏 名 任 期 備 考
右大臣 正二位 大中臣清麻呂 -781
左大臣 正二位 藤原魚名 781-782 川辺大臣。
右大臣 従二位 藤原田麻呂 782-783 贈正二位。蜷淵大臣。
右大臣 従二位 藤原是公 783-789 贈従一位。牛屋大臣。
右大臣 正二位 藤原継縄 789-796 贈従一位。桃園大臣。
大納言 正三位 紀古佐美 796-767 贈従二位。
右大臣 従二位 神 王 797- 贈正二位。

 巨大台風はその翌年もやって来た。
 今度はわざと米の収穫時にやって来て、新米を根こそぎ奪取、京内の新築家屋を軒並みなぎ倒して去っていった。
 人々はうわさした。
「おかしい。おかしすぎる」
「やはりたたりに違いない」
「廃太子がお怒りなのだ。だから帝のじゃまをするのだ」

 桓武天皇はおもしろくなかった。
「朕は怨霊など、信じぬ!」
 でも、桓武天皇自身も、例の影を見てしまったりした。
(どうも〜)
 それでも彼は頭を振って否定した。
「違う! 今のは早良ではない! 早良は死んだのだ! この世の中にいるはずがないのだっ!」
(じゃあ、私は誰〜?)
「違う! 違う! 気のせいだ! 怖くない、怖くない! 見えると思うから見えるのだ! 怖いと思うから、怖いのだっ!」
(見えるくせに〜。怖いくせに〜)
「やかましいっ!」
 近くにいた右大臣
(延暦十七年就任)神王(みわおう)が、突然どなられたので縮こまった。
「わ、私は何も申しておりませんが……」
 神王は桓武天皇政権の最後の政界首班である。
「すまん。汝にどなったわけではない」
「では、どなたに?」
「さわら……、いや! いや! そんなヤツはいない! 朕は誰にもどなっていないのだーっ!」

 清麻呂の死後、造宮を受け継いだのは、『続日本紀』編集にも関わった、たたき上げ官僚・菅野真道。
 この頃、神泉苑
(しんせんえん)が完成した。
 大内裏
(だいだいり。宮城。都心)の南、現在の二条城(にじょうじょう。京都市中京区)付近にあった大宴会場である。
 敷地は八町もあり、その中に大きな池があり、橋のかかった島があり、左右の楼閣、華美な殿舎が建てられ、駐馬場まで完備されていた、天下無双の至高の大庭園であった。
「いかがでしょうか?」
 真道の案内で視察に訪れた桓武天皇は満足した。
「ほう。見事なものだ。このようなところにいると、癒されるものだ。嫌なことも何もかも忘れられるよ」

 が、その自慢の神泉苑も、桓武天皇が視察したわずか数日後に襲来した暴風雨によって、グチャグチャボロボロ。
「うおぉ〜! なんてこった……」

 延暦十九年(800)七月、とうとう桓武天皇は早良親王に「崇道天皇(すどうてんのう)」の称号を贈った。
「朕の負けだ」
(ありがとー)
 延暦二十一年(802)、早良親王はお礼として超巨大台風をお見舞いしてあげた。
 超巨大台風は日本列島をじわじわくまなく縦断、多数の人命・建物・田畑を飲み込み、史上空前の大被害をもたらした。
 おかげで桓武天皇は免税を迫られ、災害救助活動に苦心惨憺
(くしんさんたん)、財政は枯渇欠乏した。
「早良め! なぜここまでする! せっかく天皇にしてあげたのに!」
 影は言い返した。
(何か勘違いしていませんか? 私は天皇になりたかったわけではありません。そんなことより、帝が私の功績を認めてくれないことが許せないんですよっ)
「汝の功績を認めたから、天皇にしてあげたのではないかっ!」
(いいえ。認めていません。『続日本紀』には私のしたことが何も書かれていないではないですか! いいえ、初めは書いてありましたが、途中でその部分を破り捨てたんです。帝は私の功績の部分だけを、きれいさっぱり抹殺したんですよっ!」
「バカな! 『続日本紀』は奈良時代の正史だっ。これ以上ない正しい歴史だ! いったい何を抹殺したというのだ! 言ってみろっ!」
(ふん。分かっているくせに。でも、言いますよ。宝亀十一年(780)三月に伊治呰麻呂
(こりはりのあざまろ・これはるのあざまろ・いじあざまろ)の乱が勃発しましたよね?)
「そんなことは『続日本紀』にも書いてある。陸奥国伊治郡
(上治郡。宮城県栗原市)大領(だいりょう。郡長)伊治呰麻呂が、参議兼陸奥按察使(むつあぜち。東北地方最高責任者)陸奥・紀広純(きのひろずみ)と同国牡鹿郡(おしかぐん。宮城県石巻市)大領・道島大楯(みちしまのおおたて)両名を殺害、陸奥(副知事)大伴真綱(おおとものまつな)陸奥(じょう。県庁ナンバースリー)石川浄足(いしかわのきよたり)を追い払い、多賀城を炎上させた重大事変だからな」
(そうです。帝の四次に渡る蝦夷征討の発端となった反乱です。しかし『続日本紀』には、肝心の第一次蝦夷征討は記されていません。第二次
(征東大使・紀古佐美)・第三次(征夷大使・大伴弟麻呂)・第四次(征夷大将軍坂上田村麻呂)しか記されていないのです。つまり、後世の歴史では、帝の代には三回しか蝦夷征討がなかったことになっているんです)
「その通りではないか。朕の代の蝦夷征討は三回だ。そもそもは呰麻呂の乱は父
(光仁天皇)の代に起こった反乱だ。よって、あれは父の代の蝦夷征討だっ。朕の代の蝦夷征討ではない! 父は大伴益立(おおとものますたて)や小黒麻呂を陸奥に派遣し、鎮定にあらせたではないか!」
(でも、成果をあげることはできませんでした。そのため失意の父は宝亀十二年(781)四月に譲位、代わって帝が即位したのです。帝が即位後に最初にしたこと。それが私を征夷大将軍に任じて辺境の地へ追いやることでした。これが帝の真の第一次蝦夷征討です。「鬼のいぬ間の洗濯」は、このときから始まっていたのです)
「……」
(五月五日、私は藤森神社
(ふじのもりじんじゃ。京都市伏見区)で戦勝を祈願した後、征夷副将軍・内蔵全成(くらのまたなり)、同・多犬養(おおのいぬかい)以下、征夷軍を率いて陸奥に向かいました。陸奥に着いたのは一か月後、それからわずか一か月で私は呰麻呂を討ち、陸奥を平定、八月に前任の小黒麻呂らとともに堂々と都に凱旋(がいせん)したのです。いえ、堂々としていたのは私だけです。小黒麻呂はミジメに小さくなっていました)
「……」
(都の人々は熱狂しました。口々に私を褒めたたえ、小黒麻呂をこき落としました。「さすがは皇太子だ」「それに比べて小黒麻呂は」「一年余りも何をしてたんだ?」「早良大将軍はまさしく武人の鏡だ」「男の中の男だ!」「男の子はああ成長すべきだ!」以来、民衆たちは私の武装姿を人形にし、五月五日に飾るようになったのです。これが後世の五月人形の由来です)
 現在でも藤森神社では五月五日に藤森祭が行われ、早良親王の出陣の様子を再現した武者行列が行われている。早良親王の功績は、正史には残っていなくても、伝承として語り継がれているのである。
(抹殺したければすればいい! いくら帝が私の功績を消そうとしたところで、民衆の記憶からは消すことはできないのです! たとえ帝が認めなくとも、民衆はみな認めているんです! たとえ後世の歴史家が私の功績を取り上げることがなくなっても、私の人形だけは民衆によって永遠に飾り続けられるのだっ!「ところで、この人、誰?」「さあ?」「桃太郎でも金太郎でもないよね」「何をやった人なの?」「さあ? とにかくすごいことをやった人よ」 私の名前やその功績が忘れられてしまってからも、私の人形だけは末代まで延々と男の理想像として飾り継がれていくのだっ!「男たるものはこうなるべきだ!」後世の日本男児の理想像は、断じてあなたではない! 後世、私の代わりに英雄化される坂上田村麻呂でもない! 瞬く間に逆賊・呰麻呂を討ち、蝦夷平定の先鞭
(せんべん)を着けた、この私なのだっ! いずれ私の名前は消えてしまうであろう! 私の功績も忘れ去られてしまうであろう! しかし、私のこの魂だけは、未来永劫(えいごう)永久恒久に語り継がれていくのだっ!)
「……」
(私はもう何も言わない。帝がどうしたところで、どうなるものでもない。たとえ私の名を消すことはできても、私の魂までは消すことはできないのだっ! 帝の好きなようにするがいい。「偉大なる将軍は存在しなかった! ただ、偉大なる帝王だけが存在したのだっ!」 それで満足なのでしょう。フハハ! 帝はそこまで自分をミジメにする気かっ! その醜い心がある限り、あなたは永久に私に勝つことはできないのだっ!)
「……」

 延暦二十五年(806)三月十七日、桓武天皇は死んだ。享年七十。
 彼は死ぬ前に生涯の二大事業であった平安京造宮と蝦夷征討を中止し、藤原種継暗殺事件に関わったすべての人の罪を許している。
「偉大なる将軍は存在しなかった……。ただ、偉大なる帝王だけが存在したのだ……」
 右大臣・神王が驚いたように聞いた。
「御遺言ですか?」
 桓武天皇は首を横に振った。
「いや、書き残さなくていい。朕の魂は永遠にこの都に生き続けるであろう……」

[2005年5月末日執筆]
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