2.ワル孤立〜 国際連盟脱退 | ||||||||||||||
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さて、満州では相変わらず関東軍のドンパチが続いていた。
「満州を日本の領土にしてやる」
板垣征四郎・石原莞爾らは意気込んだが、政府は不拡大方針を表明。
「やめてくれよ〜。政府は満州の領有は認めません!」
「やかましい!
そんなことより、朝鮮軍も加勢しろ!」
「ダメ!
行ってはいけません!」
でも、朝鮮軍は、
「よしきた!」
と、政府の制止も聞かずに行ってしまった。
時の朝鮮軍司令官は、林銑十郎。
後に「越境将軍」とあだ名され、首相も務めてしまった男である。
「これで強くなったぞ!」
パワーアップした関東軍は、張学良の拠点・錦州(きんしゅう・チンチョウ。中国遼寧省)を爆撃した。
これには、それまで日本を擁護してきたイギリスなど列国も怒り出した。
「ジャップめ!
何をしてくれるんだ!」
錦州にはイギリスの利権鉄道も通っていたからである。
そこでイギリスは、国際連盟でイジワルに出た。
「どうだね。ここらでアメリカ様の御意見を聞こうではないか」
日本が一番嫌がることを提案してきたのである。
芳沢は猛烈に反発した。
「アメリカは国際連盟に加盟していないではないか! 部外者を呼ぶことはない!」
しかし、十三対一の議決によって、アメリカ代表を理事会に加えることが可決された。
招待されたアメリカは、日本に勧告した。
「日本が悪い。ただちに中国から撤兵せよ。さもなくばアメリカは、経済制裁を行うであろう」
芳沢は驚いた。困った。あせった。
「ちょっと待ってくれ。そうだ! 満州がどういう事態になっているか、調査団を派遣してはどうか? これなら文句ないだろう」
とりあえず、時間稼ぎに出た。
こうして、満州にイギリスのリットンを代表とする調査団が派遣されることになった。
いわゆるリットン調査団である。
(この間に、満州は収まってくれますように)
が、芳沢の願いはかなわなかった。
昭和七年(1932)一月、板垣・石原らは第一次上海事変を起こし、排日運動を一蹴(いっしゅう)、清元皇帝・愛新覚羅溥儀を執政に担ぎ、あろうことか満州国なる独立国まで作ってしまったのである。
石原らは天使のような作り笑顔で言い張った。
「満州は日本が領有しているんじゃないよっ。独立国なんだよっ」
そうやって列国の非難をそらそうとしたのであろう。
九月、関東軍司令官・武藤信義(むとうのぶよし)は日満議定書に調印、斎藤実内閣は満州国独立を承認した。
が、列国はだまされなかった。
「何が独立国だ!」
「要職は日本人だらけではないか!」
「溥儀も傀儡(かいらい)だ!」
「日本はダメだ!」
「鬼だ!
極悪だ!」
「中国から追い出せ!」
昭和八年(1933)二月、中国の熱河省(ねっかしょう。河北省北部)で関東軍が暴れている最中、日本は国際連盟に弁舌拡声器・松岡洋右らを送り込んだ。
松岡は、国際連盟本部のあるジュネーブに着くなり、いきなりぶっ放した。
「日本は満州国を統治する。それ以外に妥協はない。それが通らなければ、日本は国際連盟を脱退する!」
「そんなこと言わずに〜」
委員会はリットン報告書を元に、決議案を作成した。
そして、日本軍の撤退と中国の満州統治権を承認した対日非難勧告を総会の議決にかけた結果、四十二対一で鮮やかに可決された。
松岡は激怒、
「やってられるか!」
と、席を蹴(け)って退場。以後、日本は再びその席に座ることはなかった。
翌日二月二十五日の「東京朝日新聞(現在の朝日新聞)」の見出し。
「連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く。総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す」