47.刺客味 基礎用語集

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院政(いんせい)
 上皇(譲位した天皇)や法皇(出家した天皇)が実質的に国政を行う形態。1086白河(しらかわ)上皇が初めて行い、1840光格(こうかく)上皇が没するまで断続的に行われたが、1221承久(じょうきゅう)の乱以降の院政は形式的。

江戸(えど)
 現在の東京都都心。首都。都庁所在地。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝がここを本拠に幕府を開いて国政の中心となり、1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)が住んで東国支配の中心となり、明治以降は別荘地や観光地として有名になった。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1192?-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。 

小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
 (1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て1972衆院議員に当選、厚相・郵政相などを経て、2001自民党総裁として首相に就任、「聖域なき構造改革」を掲げ、派閥解消に尽力、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表し、2005道路公団を民営化、2007の郵政民営化を決定した。不況味

後嵯峨法皇(ごさがほうおう)←後嵯峨上皇←後嵯峨天皇←邦仁親王(くにひとしんのう)
 (1220-1272) 伝八十八代天皇(在位1242-1246。院政1246-1272) 土御門天皇の皇子。四条天皇没後、鎌倉幕府三代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)に擁立されて即位、院の評定制などを導入し、1246退位後に院政、1252子・宗尊(むねたか)親王を将軍とし、1259後深草(ごふかくさ)天皇を亀山(かめやま)天皇に譲位させるが、皇統を定めず没したため、持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)に分裂した。

参議(さんぎ)
 太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

参議院(さんぎいん)=参院(さんいん)
 (1890- )日本国憲法のもと、衆議院とともに国会を構成する両院の一つ。議員定数は二百四十二人(当初は二百五十二人)。任期は六年で、三年ごとに半数改選。解散はない。

自衛隊(じえいたい)
 (1954-) MSA協定(日米相互防衛援助協定)により、保安隊と警備隊を改組して発足した日本の防衛組織。防衛庁に所属する陸上・海上・航空自衛隊の三隊。内閣総理大臣の統率のもと防衛庁長官が隊を総括。

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。初代は北条時政(ときまさ)。もとは院政における院司の長官のこと。

持明院統(じみょういんとう)
 後深草(ごふかくさ)天皇の皇統。持明院を院御所とした。鎌倉時代から大覚寺(だいかくじ)統と対立し、南北朝時代には京都に北朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位を継承した。

霜月騒動(しもつきそうどう)
 1285九代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)の外舅(または外祖父)で、評定衆(ひょうじょうしゅう)も務めた実力者・安達泰盛(あだちやすもり)が、内管領(ないかんれい・うちのかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)に討伐され、滅ぼされた事件。この事件は執権政治から得宗(とくそう)専制政治への転換点とされ、以後、内管領の権力はより強化された。⇒安達泰盛 揉事味

衆議院(しゅうぎいん)=衆院(しゅういん)
 (1890- )日本国憲法のもと、参議院とともに国会を構成する両院の一つ。戦前は、大日本帝国憲法のもと、貴族院とともに帝国議会を構成。戦前は予算の先議権が認められ、戦後は加えて法律の再議決などが認められている(衆議院の優越)。議員定数は四百八十人(当初は三百人)。任期は四年だが、解散がある。

自由民主党(じゆうみんしゅとう)=自民党(じみんとう)
 (1955- )自由党と民主党の保守合同によって成立した政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。結党以来一貫して政権を保持したが、1993に分裂、初めて野党に転落するが、1994再び政権党に返り咲いた。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。将軍味

清和源氏(せいわげんじ)
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族。平安後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。源頼朝(よりとも)・義経(よしつね)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)ら多くの武人を輩出した。

大覚寺統(だいかくじとう)
 亀山(かめやま)天皇の皇統。大覚寺を院御所とした。鎌倉時代から持明院(じみょういん)統と対立し、南北朝時代には吉野に南朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位に就くことなく衰退した。

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇につき勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。変異味 高齢味

平 頼綱(たいらのよりつな)→平禅門(ぜんもん)
 (?-1293) 武将。内管領・侍所所司。平盛綱(もりつな)の子? 1285霜月騒動(しもつきそうどう)で御家人代表・安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼして権勢を誇るが、1293次男・飯沼資宗(いいぬますけむね)を将軍に擁立しようとしていると長男・平宗綱(むねつな)に密告され、執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)に滅ぼされた(平頼綱の乱・平禅門の乱)。
揉事味

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
 (1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。

内管領(ないかんれい・うちかんれい・うちのかんれい)
 得宗(とくそう)家の執事のこと。御内人(みうちびと。得宗直臣)の代表。鎌倉後期、執権の後見人として権勢を誇った。平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高綱(たかつな。円喜)・高資(たかすけ)父子がその代表。

長崎(ながさき)
 現在の長崎県長崎市。県庁所在地。1571大村純忠(おおむらすみただ)がポルトガルとの貿易のために開港し、1580イエズス会に寄進、九州平定後、豊臣秀吉が没収して直轄都市とし、江戸幕府も長崎奉行を設置して統治、鎖国時代は唯一の貿易港として、開国後は重工業都市として発展したが、1945アメリカにより原爆が投下された。

中曽根康弘(なかそねやすひろ)
 (1918-) 政治家。首相(在職1982-1987)。1947衆院議員となり、1966自民党河野派から中曽根派(後の亀井派)を結成、運輸相・自民党幹事長などを務めた後、1982自民党総裁として組閣、1983行政改革審議会(行革審)を設置して行政改革を、1984臨時教育審議会(臨教審)を設置して教育改革を推進し、1985電電公社(後のNTT)・専売公社(後のJT)・1887国鉄(後のJR)を民営化したが、売上税(後の消費税)導入を検討したため国民の不信を買い、竹下登(たけしたのぼる)に後を託して退陣した。

浜口雄幸内閣(はまぐちおさちないかく)=浜口内閣
 (1929-1931) 1929田中義一(たなかぎいち)に代わって立憲民政党(りっけんみんせいとう)総裁・浜口雄幸が組閣、世界恐慌に対処して産業合理化を推進し、1931重要産業統制法・工場組合法などを制定、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)が1930金解禁(金輸出解禁)を実施し、緊縮財政を行うが、昭和恐慌を招き、外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は協調外交を方針とし、1930ロンドン海軍軍縮条約を締結するが、海軍・野党・右翼から統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)だと非難され、1930右翼青年・佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃されて負傷、1931総辞職した。不況味

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。平安中期に登場し、天皇・貴族に仕えたが、次第にのし上がり、平安末期には初の武家政権・平氏政権が誕生、源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府創設以降、明治維新まで武家政権が続いた。

北条時宗(ほうじょうときむね)
 (1251-1284) 鎌倉幕府八代執権(在職1268-1284)。時頼(ときより)の子。1264執権北条長時(ながとき)が死んだため、連署(れんしょ)に就任(執権は政村)、1268政村と執権を交替し、1272北条(名越)教時(ほうじょう・なごえのりとき)の乱(二月騒動)を平定、1274文永(ぶんえい)の役・1281弘安(こうあん)の役で元軍を退け、宋(そう)から無学祖元(むがくそげん)を招き、1282円覚寺(えんがくじ)を創建した。

宮沢喜一内閣(みわざわきいちないかく)
 (1991-1993) 海部俊樹(かいふとしき)内閣の後を受けて自民党総裁の宮沢喜一が組閣、1992国際平和協力法(PKO法)を成立させ、自衛隊をカンボジアに派遣するが、佐川急便事件を機に武村正義(たけむらまさよし)らが新党さきがけを、羽田孜(はたつとむ)・小沢一郎(おざわいちろう)らが新生党を結成して自民党は分裂、総選挙で敗れて対陣し、連立政権・細川護煕(ほそかわもりひろ)内閣が成立した。

森 喜朗(もりよしろう)
 (1937-) 政治家。首相(在職2000-2001)。新聞記者・国会議員秘書を経て1969衆院議員に当選、通産相・建設相・文相・自民党幹事長などを経て、2000小渕恵三(おぶちけいぞう)急死により五人組(野中広務・青木幹雄・亀井静香・村上正邦・森喜朗)の協議によって組閣、「神の国」発言や2001KSD事件、えひめ丸事故に対する不適切な対応などから内閣支持率が低迷し、小泉純一郎に後を託して退陣した。

森喜朗内閣(もりよしろうないかく)
 (2000-2001) 小渕恵三(おぶちけいぞう)急死により、五人組(野中広務・青木幹雄・亀井静香・村上正邦・森喜朗)の協議によって森喜朗が組閣するが、「神の国」発言や2001KSD事件、えひめ丸事故に対する不適切な対応などから内閣支持率が低迷、2001小泉純一郎に後を託して退陣した。

六波羅探題(ろくはらたんだい)
 鎌倉幕府の京都支所。南方・北方の二府。前身は京都守護。朝廷の監視や、尾張(のち三河)以西の御家人を統制した。1221承久(じょうきょう)の乱後に設置。初代探題は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時房(ときふさ)。最後の探題は北条時益(ときます)・仲時(なかとき)。1333足利尊氏(あしかがたかうじ)らの攻撃を受け、時益・仲時らは敗死、幕府に先んじて滅亡した。⇒京都守護

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