153.進撃味 基礎用語集

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会津藩(あいづはん)
 江戸時代に東北南部にあった藩。外様(加藤氏まで)→親藩。藩主は蒲生→加藤→保科(1696以後は松平)氏。石高は二十三万石(保科氏)。1643保科正之が入封して藩政を確立させ、九代藩主松平容保は京都守護職を務めるなどして幕政に関与して五万石を加増されるが、1867-1868戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として官軍と交戦し、敗れて領地を没収された。

足利氏(あしかがし)
 中世に栄えた氏族。室町幕府将軍家。清和源氏。氏祖は源義家(みなもとのよしいえ)の子・義国(よしくに)。その子・義康(よしやす)が下野国足利を本拠とした。平安時代末期に源義朝(よしとも)・頼朝(よりとも)父子に従い、鎌倉時代には北条氏の姻戚として上総・三河守護となり、1333尊氏の代に北条氏に背いて建武政権成立に協力するが、1335これにも背いて室町幕府を樹立、以後十五代義昭(よしあき)まで将軍職を世襲した。⇒足利氏系図

足利尊氏(あしかがたかうじ)←足利高氏(たかうじ)
 (1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後に鎌倉幕府を離反して後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武の親政(けんむのしんせい。建武の中興)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦で新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、後醍醐天皇率いる南朝と対立、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府し、1339弟・足利直義(ただよし)とともに夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう・かんおう)の擾乱(じょうらん)で執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義と交戦した。
暴走味

安達泰盛(あだちやすもり)
 (1231-1285) 武将。評定衆(在職1256-1285)・引付頭人。上野・肥後守護。1247宝治(ほうじ)合戦で祖父・景盛(かげもり)、父・義景(よしかげ)とともに三浦泰村(やすむら)・光村(みつむら)兄弟を滅ぼし、1256評定衆(ひょうじょうしゅう)に就任、引付頭人なども兼ね、執権長時(ながとき)・政村(まさむら)・時宗(ときむね)を補佐、1284時宗没後は弘安徳政(こうあんとくせい)を断行するが、内管領(ないかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)と対立、1285霜月騒動(しもつきそうどう)で敗れて自害した。
揉事味

アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

イラク戦争(いらくせんそう)
 (2003-2011?) 2003アメリカのブッシュ政権がイラクの大量破壊兵器廃棄とフセイン大統領の国外退去を求めて起こした戦争。2007フセインは処刑され、2011米軍が撤退したが、テロや戦闘は継続している。
窮地味 暴走味

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置や1192頼朝の将軍就任などによって始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権や得宗(とくそう)として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ組織は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、本家の得宗を中心として代々執権(しっけん)を選出、末期には内管領・長崎氏が専横するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡した。 

京都(きょうと)=京(きょう)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

光厳上皇(こうごんじょうこう)←光厳天皇←量仁親王(かずひとしんのう)
 (1313-1364) 北朝初代天皇(在位1331-1333。院政1336-1351)。後伏見(ごふしみ)天皇の皇子。1326後醍醐(ごだいご)天皇の皇太子になり、1333天皇が京都を脱出して山城笠置山(かさぎやま)で挙兵すると、鎌倉幕府に擁立されて即位、1333幕府滅亡によって廃されるが、1336弟・光明(こうみょう)天皇が足利尊氏(あしかがたかうじ)に擁されて即位すると院政を開始、1351正平一統(しょうへいいっとう)で退き、1352南朝に拉致されて出家するが、1357京都に戻り、丹波で隠棲(いんせい)した。

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味
子供味

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図
諾威味

得宗=徳宗(とくそう)
 北条(ほうじょう)氏本家の家督のこと。北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)・泰時(やすとき)・時氏(ときうじ)・経時(つねとき)・時頼(ときより)・時宗(ときむね)・貞時(さだとき)・高時(たかとき)の九代。時政と時氏を除いて七代とも。

内管領(ないかんれい・うちかんれい・うちのかんれい)
 得宗(とくそう)家の執事のこと。御内人(みうちびと。得宗直臣)の代表。鎌倉後期、執権の後見人として権勢を誇った。平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高綱(たかつな。円喜)・高資(たかすけ)父子がその代表。

長崎高資(ながさきたかすけ)
 (?-1333) 武将・幕僚。高綱(たかつな。円喜)の子。父から内管領を譲られて幕府の実権を握り、執権・北条高時(ほうじょうたかとき)の下で賄賂(わいろ)政治を展開、1326出家した高時に代えて金沢(北条)貞顕(かねざわさだあき)を執権に擁し、1331専横を憎んだ高時に殺されかけるが和解し、1333鎌倉幕府滅亡時に一族とともに東勝寺で自害した。

新田義貞(にったよしさだ)
 (?-1338) 武将。新田朝氏(ともうじ)の子。1333分倍河原(ぶばいがわら)の戦などで幕府軍を破り、鎌倉を攻略(鎌倉幕府滅亡)、1333-1335建武政権で武者所頭人(むしゃどころとうにん)に就き、1335後醍醐(ごだいご)天皇に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)討伐に向かうも竹ノ下の戦で敗退、上洛した尊氏を西海に追うが、1336湊川(みなとがわ)の戦で敗走、恒良(つねよし)親王を奉じて北陸に下るが、1337越前金ヶ崎(かねがさき。福井県敦賀市)城が陥落、1338藤島(ふじしま)の戦で斯波高経(しばたかつね)に敗死した。
進撃味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「

比企能員(ひきよしかず)
 (?-1203) 武将。源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の養子。源頼家の妻の父。義兄・朝宗(ともむね)没後に比企氏を継ぎ、頼朝に臣従、1182頼家誕生で乳母夫となり、1184源範頼(のりより)に従って平家を追討、1189奥州征討では出羽を平定し、1190頼朝上洛の際に右衛門尉に任官、上野・信濃守護を務め、1199頼朝没後も宿老として十三人の合議制にも参与、梶原景時排斥にも参加し、外戚として権勢を誇ったが、1203北条氏追討を画策して殺された(比企氏の乱・比企能員の乱)。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

北条高時(ほうじょうたかとき)
 (1303-1333) 武将。鎌倉幕府第十四代執権(在職1316-1326)。第七代得宗(とくそう)。貞時(さだとき)の子。1311父の死で家督を継ぎ、1316執権に就任、舅・安達時顕(あだちときあき)、内管領・長崎高綱(ながときたかつな)・高資(たかすけ)父子に幕政を任せ、1326執権を辞めて田楽(でんがく)や闘犬(とうけん)に熱中、1331挙兵した後醍醐(ごだいご)天皇を逮捕し、隠岐へ流刑にするが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、一族とともに東勝寺(とうしょうじ)で自害した。
進撃味 離脱味

御内人(みうちびと)=得宗御内(とくそうみうち)
 得宗家の家臣のこと。得宗被官。将軍が無力化し、得宗の権限が強まるに伴ってその力も増し、平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高資(ながさきたかすけ)らのように内管領に就任して幕政に参与する者もいた。

三浦泰村(みうらやすむら)
 (1204?-1247) 武将。御家人。評定衆。義村の子。母は土肥遠平の娘。1221承久の乱で活躍し、1246五代執権となった北条時頼(ほうじょうときより)にも信頼されたが、宮騒動で弟・光村(みつむら)が加担していたこともあって対立し、1247安達景盛(あだちかげもり)の意を受けた安達泰盛(やすもり)に攻め滅ぼされた(宝治合戦)。

源義家(みなもとのよしいえ)=八幡太郎(はちまんたろう)
 (1039-1106) 武将。源頼義(よりよし)の子。1051-1062前九年の役(ぜんくねんのえき。前九年合戦)に従軍し、1063出羽守に、1083陸奥守・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任、1083-1087後三年の役(ごさんねんのえき。後三年合戦)で清原清衡(きよはらのきよひら。後の藤原清衡)を助け、清原家衡(いえひら)・清原武衡(たけひら)を討ち、武家の棟梁(とうりょう)の地位を確立、1098院の昇殿を許された。

綸旨(りんじ・りんし)
 天皇の命令のこと。特に天皇の意を受けて蔵人など側近が発行する文書のこと。平安時代末期から南北朝時代に多く発行され、建武の新政では絶対万能とされた。

六波羅探題(ろくはらたんだい)
 鎌倉幕府の京都支所。南方・北方の二府。前身は京都守護。朝廷の監視や、尾張(のち三河)以西の御家人を統制した。1221承久(じょうきょう)の乱後に設置。初代探題は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時房(ときふさ)。最後の探題は北条時益(ときます)・仲時(なかとき)。1333足利尊氏(あしかがたかうじ)らの攻撃を受け、時益・仲時らは敗死、幕府に先んじて滅亡した。⇒京都守護

和田義盛(わだよしもり)
 (1147-1213) 武将。侍所(さむらいどころ)別当。杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。三浦義明(みうらよしあき)の孫。1180同族の三浦義澄(よしずみ)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従い、初代侍所別当に就任、頼朝(みなもとのよりとも)死後は十三人の合議制に列し、1200梶原景時(かじわらのかげとき)・1203比企能員(ひきよしかず)討伐に参加、幕府内で力を持ったが、政所(まんどころ)別当・北条義時(ほうじょうよしとき)と対立、挑発に乗って和田合戦(和田氏の乱)を起こして敗死した。排除味
挑発味

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