1.その男 | ||||||||||||||
歴史チップス>バックナンバー2023>令和五年9月号(通算263号)処理味 嘉吉の乱1.その男
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その男、タダモノではなかった。
その男とは、伏見宮貞成親王(「天皇家系図」参照)。
普通は十何歳で元服(げんぷく。成人式)するが、彼が元服できたのは四十歳。
「やっと大人になれたー!」
この時、貞成親王は、伏見御所(ふしみごしょ。伏見殿。京都市伏見区)で初めて正式に父・栄仁親王と対面した。
「初めまして、お父さま」
「おお、息子よ。大きくなったのう」
「ていうかもう半分ジジイですけど」
で、いきなり同居を開始したのである。
四十五歳の時、貞成親王は日記を書き始めた。
応永二十三年(1416)から文安五年(1448)まで記された室町時代の第一級史料『看聞日記(かんもんにっき。看聞御記)』である。
当然、嘉吉元年(1441)六月二十四日に室町幕府六代将軍・足利義教が暗殺された嘉吉の変についても記されている。
貞成親王は事件の詳細を記した後、こう感想を述べている。
所詮、赤松討たるべき御企て露顕の間、さえぎって討ち申すと云々。自業自得、果たして無力の事か。将軍、このごとき犬死、古来その例を聞かざる事なり。
京雀たちは騒ぎ立てた。
「火事だ!」
「二条西洞院(にじょうにしのとういん。京都市中京区)だ!」
「赤松邸だ! 彦次郎ボン(赤松教康)のおうちが燃えてる!」
「伊予守(赤松義雅)の家も燃えてるぞ!」
「左馬助(赤松則繁)の宅もだ!」
「なんで赤松一族の邸宅ばっかなの?」
「公方さまが暗殺されはったそうや」
「え?誰に?」
「赤松一族に決まっているじゃないか」
「そうそう。性具入道(赤松満祐)は公方さまをうらんでいた」
「伊予守や左馬助もだ」
「そういえばさっき、炎の中を足早に駆けていく武者軍団が浮かび上がっていたな」
「連中は各々の自宅を焼いて播磨に逃げていったんだ」
「悪いやっちゃ」
「もっと悪いのは公方はん」
「そう。悪御所が一番悪い。正道とかいって悪政ばかりしでかしていた」
「悪御所を退治してくれた赤松は逆に英雄じゃね?」
「赤松は悪くない。赤松が殺(や)らなくても、いつかは誰かが殺っていた!」
「将軍を恨んでいたのは赤松だけじゃない。みんな恨んでいたんだ。その証拠に誰も赤松を退治しに行こうとしない」
相国寺蔭涼軒(しょうこくじいんりょうけん)主・季瓊真蘂は義教と親しかった。
「哀れな」
季瓊真蘂は赤松氏一族上月氏の出身であった。
彼は火事が収まると、将軍の遺体を拾って鹿苑院(ろくおんいん。相国寺塔頭で後に廃絶。京都市上京区)に運んだ。
首は赤松満祐らに持ち去られたため、とりあえず胴体のみである。
翌朝、遺体は足利氏の菩提寺・等持院(とうじいん。京都市北区)に移された。
首は後に瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)に取りに行かせることになる。