3.渡る世間は敵ばかり | ||||||||||||||
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宇多天皇の治世を「寛平(かんぴょう)の治」といいます。
権勢家である父・藤原基経が死に、跡を継いだ私がまだ少年だったため、摂関政治が一服し、天皇親政が復活したのです。
しかし、宇多天皇はそれほど思うように執政していませんでした。彼には頭の上がらない人々が大勢いたのです。
それも女ばっか――。
まず挙げられるのは、彼の生母、皇太夫人(醍醐天皇即位後は皇太后)・班子女王(はんしじょおう。「平安味」参照)です。
「あんたはいくつになっても子供だねー。あんたがもっとしっかりしないことには、あたしゃ死のうにも死ねやしないわい」
いつの時代も母というものは子の私生活に介入してくるので(当然でしょうが)、厄介なものです。
しかも班子女王は特にツワモノでした。
高貴な方のくせに、自分でゼニを持って直接市場に買い物に行かないと気がすまない性格でもありました。
「やめてください! 買い物は我々下々の者がいたしますから〜!」
「嫌じゃー! 自分で買ってくるんじゃー! お前たちは変なもんばっか買ってくるから気に食わないんじゃー!
ちょっと、お前。誰に向かって通せんぼしてるの? 行くって言ったら行くんじゃい!
下がりゃー! これでも食らえー! 蹴(け)りー! 蹴りー!」
「痛い〜。うわー! しまった! またお出かけなされてしまった〜!」
他人にもそんなものですから、子の宇多天皇には口も手も出すお節介大干渉です。
「何その服〜。あんたは若いんだからもっと派手な服を着なさい!」
「あの女はムカツクから追い出しなさい!」
「箸(はし)の持ち方がおかしい!」
ビシッ!
「さっきも言ったでしょ! 何度も言わせなーい!」
ビシッ! ボカッ!
宇多天皇もキレたことでしょう。
「やかましーわ、コラー! 朕(ちん)は天皇じゃー!いらぬお節介はやめー!!」
もう一人、宇多天皇には厄介な「母」がいました。
私のおば(基経の妹)で宇多天皇の養母、尚侍(ないしのかみ・しょうじ。内侍司長官)・藤原淑子(しゅくし)です。
「どうも〜」
後宮のドンである淑子は、物静かですが、さりげなく政治に介入してきます。
「あ、これはこうしたほうがいいですよね〜」
「でも、それは……」
「こっちもこう、こう」
「それもその……」
反発しようにも、淑子は自分を天皇に擁立してくれた大恩人ですので何も言えません。
実は彼女は、私の父よりも権勢を誇っていたとも言われています。
「なーに、坊や。何が不満なの?」
「いえ、何でもありませんっ」
班子女王が宇多天皇の「私の敵」とすると、淑子は「公の敵」でした。
そうです。宇多天皇は公私に渡って完全制御されていたのです。
「ああ、思いっきりハネ伸ばしてー!」
それもかないませんでした。
義子や温子や胤子、宇多天皇の妻たちも、みな強敵ぞろいだったからです。それらの敵は、宇多天皇が浮気するたびに、ますます勢力を増していきました。
表の世界もそうでした。
男たち、つまり、公卿たちも宇多天皇のことを何かしらさげすんでいるようでした。少なくとも彼にはそう思えてなりませんでした。そして彼は、その理由を全部「あのせい」だと信じていたのです。
あるとき、宇多天皇は公卿たちの前でとうとう「あのせい」を口にしてしまいました。大声でわめき散らしてしまいました。
「ああ、ムカムカする! 何が朕だ! 何が天皇だ! どーせおれは、どーせおれはぁ、どーせおれはぁぁー、元は臣下の天皇だよーっ!! お前らと同じように、毎日朝廷に出勤していた役人上がりの天皇だよーっ!! いくらがんばって天皇ぶったって、威厳がねーって言いてーんだろーがぁーっ! だからお前たちはおれのことを軽んじていやがるんだぁー! ぐわーーーっ!!」
「誰もそんなこと申してませんて〜」
「どど、どうしちゃったの、帝!?」
「壊れちゃったの〜?」
「ああ、どこへー!?」
「ふん! ふーんっ!!」
宇多天皇はいじけました。
「にゃうぅ〜ん」
愛猫がすり寄ってきました。
「よーしよしよし。かわいいのはお前だけだ」
宇多天皇はそいつをひざに抱いてナデナデしました。彼はいわゆる愛猫家でした。
「帝ぉ〜」
菅原道真先生が追ってきました。
「おお、菅家」
宇多天皇は猫をなでながら打ち明けました。
「辞める」
「え、何を?」
「朕は譲位する。いいことを思いついた。仏道だ。出家して寺に入ってしまえば、うるさい女も生意気な公卿も寄り付けない。ざまーみろだ。へっ!」
「短気はおやめくださいませ! まずは落ち着かれることでございます。冷静に冷静に」
「冷静になれるかー! 冷静になるためには仏道が必要なのだー! 静かな寺なこもることが必要なのだー!
これからの朕は、もう誰にも介入されぬぞーっ! ハッハッハー!」
「にゃいーん!」
猫は大声にびっくりして逃げていきました。
「落ち着きください! 出家なさると、大好きな女遊びもできなくなりますよっ」
「うるせー! 人を女たらしみたいに申すなぁー!!」
これより十数年後のことですが、宇多天皇にはこんな逸話があります。
私が外戚になるため、娘の褒子(ほうし)を醍醐天皇の後宮に送り込んだ際のことです。
何日かして、醍醐天皇が私に聞きました。
「時平。娘をくれるのではなかったのか?」
「え? 褒子ならとっくの前に差し上げましたけど……」
「は? 朕はもらってないぞ」
私はもしやと思って前天皇・宇多天皇(当時は法皇)を問い詰めました。
すると、宇多天皇は明かしました。
「あー、そのその――、あんまりかわいかったので、朕が代わりに囲っておいた。へへっ!」
まったくもう、なんじゃそれ!です。
そうです。宇多天皇の女好きは出家したぐらいで治まることはなかったのです。
あ、実は私にも叔父・藤原国経の妻・本院侍従(ほんいんのじじゅう。「平安味」参照)を寝取ったという逸話が残っていますが、その件についてはノーコメントとさせていただきます。へへっ!
宇多天皇が譲位したがっているといううわさは、すぐに公卿たちに広まってしまいました。
「え、帝、辞めるの!?」
「なんでなんで? どーゆーこと?」
「はて? 何が原因〜?」
先生は何とか思いとどまるよう宇多天皇を説得しましたが、その意思が固いことを知ってあきらめました。
寛平九年(897)七月、宇多天皇は譲位し(宇多上皇)、敦仁親王が受禅(皇位継承)しました(醍醐天皇)。宇多上皇はその二年後に自ら建てた仁和寺(にんなじ。京都市右京区)で正式に出家しています(宇多法皇)。
譲位時、宇多上皇は醍醐天皇に「書き置き」を渡しました。
いわゆる「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」です。
それには、こんなことも書かれていました。
「何事も時平と道真の両名に相談するように」
すると、時の権大納言・源光、中納言・藤原高藤、中納言・藤原国経の三納言は怒りました。
「なんてこった」
「つまり、おれたちに用はねーってことだ」
「バカバカしい。帰ろ! 帰ろ!」
三人の納言はいっせいに政務をボイコットしたのです。
「そんなことないって〜」
「頼むから、出仕してください!」
何とか私と先生が彼らをなだめて出仕させましたが後味の悪いものでした。
宇多天皇の譲位は、私の師・大蔵善行を喜ばせました。
「これで菅家は最大の後ろ盾を失ったわけだ」
「公卿は敵ばかりですしね」
三善清行もうれしそうでした。
師は聞きました。
「いったいどうしてこのような好展開になったんだ? ひょっとしておぬし、何か策を仕掛けたのか?」
清行は否定しませんでした。
「御想像にお任せします」
「ヒッヒッヒ! みなみな菅家の政策には反対なのだ! これで菅家の味方は一人もいなくなった!」
摂関家と菅原氏の潤滑油だった源能有は、この年の六月に五十三歳で死んでいます。
清行は言いました。
「あえて挙げるとすれば、時平だけですね」
「時平は我が弟子だ」
「が、彼は菅家とも親密。案外、強敵かもしれませんよ」
「何。ここはわしに考えがある。アレで攻めれば陥落しないはずはない。ヒッヒッヒ!」